巨人在団45年・小松敏宏の誠の歩み

スコアラーとして試合を見守る小松氏(1986年5月)

【越智正典 ネット裏】先週、東急東横線の「新丸子」の話をした。東口を訪れてから「西口」に廻った。西口では、いつも昭和32年春の第29回センバツで準優勝(早実5対3高知商業)の、高知商業の左腕、33年巨人入団の小松敏宏とよく待ち合わせをした。彼の家は西口に近い。

小松は昭和15年1月13日高知生まれ。少年時代は山に入って山桃の実を採って食べるのが大好きだった。野球を始め、高知商業のエース。センバツへ出発が近づいたとき高熱が出て入院した。

が、出発当日、病院を抜け出して神戸行きの関西汽船に乗船。ナインと再会。たまらなくなったのだ。「それからのことはまったく覚えていないんです。大会が終わって高知に帰って来たときのことも…」と回想している。まだ熱があったのであろう。

「旗を持って行進してから病院へ行って注射してもらったときにホッとしたんですが、決勝戦の試合前に早実の王投手がうちのベンチにニコニコしながら挨拶にやって来たのが浮かんで来ました。高知商業はあのニコッ!に負けたんですよ」

王も小松もそうだが、この年のセンバツは左投手が多かった。野球にも不思議なめぐり合わせがある。苫小牧東高校の桝川順治、八幡商業の虎若祐治、岐阜商業の清沢忠彦。清沢は引き揚げ少年、度胸が据わっている。快速球。ファウルをするのがむずかしかった。

この話をするのに小松「敏宏」と言って来たが、大会中は(そのあともしばらくの間)「俊広」。おかあさんがいいことがありますように…と、学校に頼んだのである。母の想いはこうだ。おかあさんは大会後に亡くなる。

35年秋、川上哲治が巨人監督に就任。壮大なチームづくりを始める。小松は見込まれて先乗りスコアラーになった。甲子園球場へ偵察に行くときに梅田から始発電車に乗る。席が空いていても座らなかった。

「ここはタイガースを見に行くお客さんの席です」

ひとり旅が始まる。広島市民球場。試合が終わると大急ぎで宿に戻る。偵察報告を書き始める。投手対打者の対戦成績。選手用である。終わると守りのフォーメーション。コーチ用なのだ。報告書3通目は川上監督用で、川上が最重要視する調査である。もう、夜が明けようとしているのも珍しくなかった。川上は次に対戦するチームのなかで、いまだれがいちばん闘志に燃えているかを作戦の基にしていた。これを調べるには練習から見なければならない。

書き終えても小松の仕事は終わっていない。全日空の広島事務所へ走った。選手用とコーチ用は巨人球団事務所へいっしょに送ったが、川上監督へのリポートは別封であった。

在団45年、誠の歩みの小松に会った。小松はしみじみと「水原監督と藤田監督にはごはんをマナー正しく食べるのを教わりました。川上監督にはおいしく、長嶋監督には賑やかに、王監督にはみんな仲よく食べるのを学びました。おふくろが亡くなってから母親の代わりをやってくれた姉に会いに高知へ行きたいんですが(コロナで)まだ行けないんです」=敬称略=

© 株式会社東京スポーツ新聞社