スティーブ・ウィリアムス 世界一の殺人魚雷コンビが“タッグ革命”

ウィリアムス(下)は三沢から3冠王座を奪取した(94年7月28日、日本武道館)

【和田京平 王道を彩った戦士たち(最終回)】全日本プロレス和田京平名誉レフェリー(66)の連載「王道を彩った戦士たち」はいよいよ最終回。最後は“殺人医師”の異名を取り、四天王と激闘を展開した元3冠ヘビー級王者スティーブ・ウィリアムス(享年49)について語る。

俺が裁いた外国人では最高級に入る選手だった。「こちらでは使いきれないので使ってほしい」と新日本プロレスから移籍してきたんだよね。俺は「嫌だなあ。トラブルを起こすんじゃないか」と警戒してたけど、フタを開けてみたら全然違う。頭のいい真面目な青年だった。

ただ技に強引なところがあったので「自分の団体の選手がケガしちゃ困る」とジャイアント馬場さんが直接リング上で教えたんだよね。外国人に馬場さんが自ら教えたのはウィリアムスとゲーリー・オブライトぐらい。2人ともその教えで水を得た魚のように全日本になじんだ。性に合っていたと思う。

俺を一番信頼してくれた外国人だった。「ミスター和田がレフェリーなら安心して試合ができる」と言ってくれた。あのバックドロップも威力や破壊力はすごいんだけど、相手が受け身を取れるように改善されていった。それでも一撃必殺だったけど(笑い)。

三沢光晴たち四天王もウィリアムスとテリー・ゴディの2人がいなければ、あそこまで急激に伸びなかった。ゴディとの“殺人魚雷コンビ”は俺が見た中でも世界一のコンビ。1990年代にタッグの意味を変えた新しいコンビだった。

全てが理にかなっていた。スタン・ハンセンなんかは突然入ってきて試合をブチ壊すんだけど、ウィリアムスとゴディはキチンとタッチして、反則が許される5秒間のうちに合体攻撃を仕掛ける。だからこちらも止められなかった。あれは革命的だった。

ヘビーのタッグにジュニアのスピードを持ち込んだのも彼らだよね。ダイナマイト・キッドの試合を見て勉強したからだろうけど、タッグの意義を変えちゃった。ゴディの内臓の病気(93年)で長くは続かなかったけれど、プライベートでもやんちゃなゴディに「酒は飲みすぎるな。健康は徹底管理しろ」とコントロールしていたのがウィリアムスだった。

49歳で亡くなったのか。早過ぎるよね。心から日本を愛していた。俺にとっては生涯忘れられない名選手ですよ。(終わり)

1960年5月14日、コロラド州レイクウッド出身。大学ではアメフトとレスリングで活躍し、83年にプロレスデビュー。86年には新日本プロレスに初来日した。NWAで活躍後、90年から全日本プロレスに参戦。テリー・ゴディとの“殺人魚雷”コンビで90、91年の世界最強タッグ決定リーグ戦を連覇した。94年7月に3冠ヘビー級王座を奪取。98年にWWF、2003年からIWAジャパンにも参戦した。04年に咽頭がんを告白し、09年12月30日死去。全盛時は188センチ、123キロ。

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