【伊藤鉦三連載コラム】193センチのブラッグスに一歩も引かなかった与田

与田は肝っ玉が据わっていた

【ドラゴンズ血風録~竜のすべてを知る男~(11)】高木監督勝負の3年目となった1994年はシーズン最後にドラゴンズとジャイアンツの間でプロ野球史に残る激闘が繰り広げられることになります。ただこのシーズン、中日はなかなか波に乗れませんでした。開幕からずっと5割前後を行ったり来たり。一方、ライバルの長嶋巨人は前年オフに導入されたFA制度でうちの4番だった落合博満を獲得。松井秀喜、落合という強力な3番、4番を擁する打線が爆発して貯金を量産していきます。

そんな中、6月22日の横浜戦(ナゴヤ球場)でリリーフ登板した与田(現中日監督)が“事件”に巻き込まれます。8回無死二塁の場面で与田が横浜の助っ人・ブラッグスに投じた内角球が左手甲をかすめる死球。そんなに危ない球ではなかったのですが、なぜかブラッグスは激高してマウンド上の与田に詰め寄ったのです。

ブラッグスという選手は身長193センチの大男。前年6月にもうちの津野に死球を与えられると、ブチ切れて津野を殴って退場になっていました。しかもこのときは、いったんベンチに引っ込んだ後も再び出てきて中日ベンチに殴り込もうとしてきたという非常に危険な選手です。普通ならそんな選手が迫ってくれば逃げるはずなのですが、与田は逃げませんでした。

現在の中日監督としてソフトなイメージを持っている方も多いと思いますが、与田は90年のルーキーイヤーからいきなり星野監督に守護神を任せられた男です。いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた“星野門下生”の一人だけに肝っ玉は据わっています。向かってくるブラッグスに対して一歩も引かなかったのですが、これがいけませんでした。ブラッグスはいきなり与田に殴りかかり、パンチを乱打。両軍入り乱れての大乱闘を引き起こしました。与田はそのまま病院に直行となりましたが、頭部と右肩関節挫傷、右肘関節部挫創で全治2週間のケガを負わされたのです。

普段はあまり感情を表に出さない高木監督も大事な選手が傷つけられたことに怒り心頭で「(ブラッグスが)10ゲーム以下の出場停止処分ならこっちにも覚悟がある。“目には目を”でやる」と発言。この「目には目を」発言は川島セ・リーグ会長から球団代表を通じて「不適切」として注意を受けました。それでも高木監督は「次にブラッグスが向かってきたらベンチ前に誘導して袋叩きにしてやる」と新聞記者の前で言っていましたから相当怒っていたんでしょうね。

6月終了時点で中日は貯金「1」でしたが、巨人は貯金「20」で実に9・5ゲームも離されていました。すると7月に入った途端にスポーツ新聞に「権藤氏浮上」「星野氏再登板も」などと次期監督問題が書き立てられるようになったのです。ペナントレースはまだ半分残っているというのに中日の話題は「次の監督は誰か」ということばかり。しかしそんな状況にナインは奮起します。9月に入ってから今中、山本昌、大豊、立浪、仁村弟(現中日二軍監督)らが力を発揮し、ドラゴンズは怒とうの反撃を開始。最大10・5ゲーム差あった巨人に迫っていったのです。

☆いとう・しょうぞう 1945年10月15日生まれ。愛知県出身。享栄商業(現享栄高校)でエースとして活躍し、63年春の選抜大会に出場。社会人・日通浦和で4年間プレーした後、日本鍼灸理療専門学校に入学し、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。86年に中日ドラゴンズのトレーナーとなり、星野、高木、山田、落合政権下でトレーナーを務める。2007年から昇竜館の副館長を務め、20年に退職。中日ナイン、OBからの信頼も厚いドラゴンズの生き字引的存在。

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