「最初は甲子園を目指そうと…」 話題の57歳“オジサン球児”が大学野球を選んだ訳

名古屋工業大の加藤文彦さん【写真:小西亮】

4月3日の愛知大学リーグ3部の開幕戦で公式戦デビューした加藤文彦さん

9回2死。その瞬間は、突如としてやってきた。あとひとりで勝利の場面で、一塁の守備についた。「打球が飛んできたら…」。高鳴る鼓動は、三振のコールともに安堵に変わる。「最後に整列しただけで終わりました」。そう笑って振り返る背番号89は、5月に58歳を迎える。いま話題の“オジサン球児”は、待望の公式戦デビューを飾った。【小西亮】

この春から名古屋工業大の2年生になった加藤文彦さん。名古屋外国語大と対戦した3日の愛知大学野球3部の春季リーグ開幕戦で、たった1死でも出場記録を残した。今年2月に野球部のツイッターがその存在を紹介すると、SNSで話題に。メディアからの取材が殺到している。

57歳の“オールドルーキー”は卒業し、1年生の後輩ができた。部員は約20人。名古屋市千種区のグラウンドで行われる野球部の練習では、二回り以上も年下のチームメートたちにすっかり溶け込んでいる。普段は互いに敬語。でもグラウンド上では「今の捕れたよ!」と、息子のような仲間たちから愛ある声が飛ぶ。

身長170センチ、左投げ左打ちの一塁手。現ソフトバンク球団会長の王貞治氏が監督時代に背負った「89」にあやかった。指3本ほど短くバットを持ち、シュアな打撃を心がける。「バッティングは、まだまだ課題です」。なかなか飛んでくれない硬式球に、試行錯誤が続く。

平日は役所に勤める公務員。土日の時間をグラウンドで過ごすようになったのは、3、4年前から巷で耳にするようになった「人生100年時代」という言葉がきっかけだった。「いくつになっても学び直すことができるんだなと」。一念発起して試験勉強を開始。高校生や浪人生たちと一緒に一般入試を受け、昨春に夜間の「第二部」に入った。

社会人になっても野球がしたいと思えば、草野球チームはどこにでもある。わざわざ入試をへてまで大学野球にこだわったのには、ひとつの思いがあった。

「どうせやるなら、夢を持ってやりたい。夢なんて寝て起きたら覚める儚いものですけど、大学野球には“神宮”という目指す場所がある。たとえ現実的じゃくても、“ひょっとしたら”と思いながら野球をやりたいと思いました」

加藤さんは左投げ左打ちの一塁手【写真:小西亮】

「まずチームでの競争」学生時代の“心残り”も情熱を傾ける原動力に

ただプレーを楽しむのではなく、目標に向かって突き進みたい。「本当は最初、甲子園を目指そうと高校生になろうと思ったんですが、高校野球は年齢制限があるので……。だったら大学で」と言って笑う。愛知大学野球連盟の規定では、在学通算4年以内であることや、過去に他の連盟に所属していないことは明記されているだけで、年齢制限はなし。聴講生などでもなく「学部生」である必要があるため、加藤さんは受験した。

もちろん、現実は厳しい。名工大は現在リーグ3部に所属。1部まで昇格し、優勝しなければ全国への道は開かれない。ただ、大切にしているのは目標に向かって日々積み重ねていく過程。遊び半分の気持ちは毛頭ない。「まずチームでの競争。ベンチ入りメンバーに入らないといけません」。平日は練習できないため、早朝や仕事終わりに坂道ダッシュなどの個別トレーニングに励む。

ここまで情熱を注ぐ原動力のひとつには、学生時代の“心残り”がある。小学4年から地元・岐阜のスポーツ少年団で始めた軟式野球。中学でも続けたが、2年夏を境に遠ざかった。当時、言葉を発する際に詰まってしまう「吃音」の症状があり、意思疎通が欠かせないチームスポーツは厳しいと判断した。高校は部活動に所属せず“帰宅部”。大学ではヨット部に入り、白球とは縁がなかった。

40年ほどの時をへて、取り戻した青春。「気持ちは19歳です」と目尻に深いしわを刻む。57歳になる年に入学したため、4年生を迎える還暦を一区切りにしたい。

「三振になって歩いてベンチに戻るのは簡単ですが、ボールが前に飛んじゃうと走らないといけないですからね。せめて二塁までは走れる体力をと考えると、50代の今が最後のチャンスかなと思っています」

記念すべき公式戦デビューの日は、くしくも結婚記念日だった。「まあ妻は、私のやってることに関心ないようですが」と苦笑いを浮かべるが、その表情からは充足感が溢れる。次なる目標は、公式戦での初ヒット。「野球は楽しいですねぇ」。オジサン球児の情熱は、当分冷めそうにない。

【動画】57歳とは思えない“オジサン球児”の軽快プレー

【動画】57歳とは思えない“オジサン球児”の軽快プレー

【写真】溶け込んでる? チームメートと練習を見つめる加藤さん

溶け込んでる? チームメートと練習を見つめる加藤さん【写真:小西亮】 signature

(小西亮 / Ryo Konishi)

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