遠い東北の地から見守る カヌー日本代表・水本の両親 今は長崎に恩返しを

田んぼの前で「時間があるときは圭治も稲刈りやリンゴの収穫を手伝ってくれた」と語る淳一さん(右)と久美さん=岩手県紫波郡矢巾町

 豊かな自然に囲まれた岩手県紫波郡矢巾(やはば)町。カヌー五輪代表に内定している水本圭治(チョープロ)は、この地で江戸時代から13代続く農家の長男として生まれた。父の淳一さん、母の久美さんは米やリンゴ、麦などを作っている。「ゆくゆくは家業を継いでもらいたい。でも、今はカヌーに打ち込んで長崎に恩返しをしてほしい」。2人は遠い東北の地から息子を見守っている。

□苦しい家計
 音楽好きな父の影響で、幼少期はバイオリンを習っていた。だが、親の意に反して、小中学時代はサッカーや野球、陸上の四種競技に熱中。中学3年時の体力診断書の数値は全項目ハイレベルで、そこに「カヌーが向いている」と書かれていた。その後、進学した不来方(こずかた)高にたまたまカヌー部があった。診断書を信じ込んだ両親は「入れ入れ」と勧めた。この選択が人生を変えた。
 3年時にカヌーがインターハイ競技になると、一番乗りで4冠を達成した。「息子は持っている」。両親は喜ぶ一方、問題も出てきた。日本代表として国際大会の遠征や合宿が増え、その約半分は自己負担。久美さんは「家計は苦しくて本当に大変だった。でも、好きなことをやらせてあげたい」と何とか工面して息子を支えた。
 五輪への最初の挑戦は大正大2年時の2008年北京。わずかの差で代表入りを逃した。2度目は卒業後、大学の職員として働きながら競技を続けていた12年ロンドン。これもあと一歩だった。結果、競技継続が難しい状況になったが、両親は願っていた。「できれば頑張ってほしいな…」
 そんな時期に長崎県から、14年地元国体に向けたスポーツ専門員として誘われた。「遠いのはネックだけど、いい話だった」。久美さんは息子の背中を押した。

カヌー五輪代表の水本圭治(左から2人目)。幼少期にひな飾りの前で子どもたちと記念写真に納まる久美さん(右端)=岩手県紫波郡矢巾町

□会社へ感謝
 その後、16年リオデジャネイロも“鼻差”で落選したが、17年からはチョープロ所属となり、また頑張ることができた。本業のほか、スーパーのレジ打ちをして息子の遠征費を捻出していた久美さんは今、全力で支えてくれる会社への感謝しかない。「足向けて寝られない。岩手でカヌー選手1人抱える企業はない」。そして息子は長崎へ来てから約10年-。悲願の五輪切符をつかんだ。
 選考レースとなった19年世界選手権の時、淳一さんは「圭治の試合を見るために引いた」というインターネットで見守った。久美さんは仕事で手が離せず「決まったら知らせて」と伝えていた。「最初はだめだったと連絡がきて、31歳という年齢的にも今回で終わりかなと思っていたら、お父さんが“間違い、決まった”と慌てて駆け付けてきた」。2人は「ここまで本当に長かったから…」と喜び合った。
 矢巾町初のオリンピアンとして後援会も盛り上がっている。町役場や母校には懸垂幕が掲げられた。「五輪があったらいいね、7位入賞ぐらいはしてほしい」。2人は待ちに待った思いを込めて、本番は東京で応援すると決めている。


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