対立、誰も望んでいない 漁業も農業もここで 続く混迷「国は責任を」 諫干堤防閉め切り24年

「諫早湾で狙う魚もいなくなった」と言う平田さん=諫早市(写真左)、麦畑で「収量が増え、質も安定した」と話す彌富さん=雲仙市(写真右)

 穏やかな春風を受け、大地いっぱいに広がる大麦の穂が波打っていた。「生育は順調」。彌富秀寛さん(66)が頬を緩ませた。遠くに国営諫早湾干拓事業の潮受け堤防が見える。
 長崎県雲仙市吾妻町の吾妻土地改良区。明治から昭和初めにかけ、祖父・寛一さん=故人=ら農業者らが造成した約250ヘクタールの干拓地だ。
 営農者の夢と希望が詰まった農地。だが長年、諫早湾から吹き上げる潮風で塩害に悩まされ続けてきた。低地でもあり、「田植えをすれば梅雨で冠水。収穫前には台風による潮風で稲穂が赤茶色になってしおれた」ことも度々だった。
 そんな営農者らの“救世主”になったのが、潮受け堤防だ。湾が閉め切られたことで、湾奥部に位置する同改良区が面していた海は淡水の調整池に。塩害は解消され、冠水被害もほとんどなくなった。農作物は収量が増え、質も安定した。今は約1400区画で若手を含めた組合員らが農業に携わる。「あの状態が続いていたら、みんな離農していたと思う」
 閉め切りから14日で24年。「泥にまみれてこの地を干拓した祖父たちの苦労に報いるためにも、今の営農環境を守りたい」。だが、複雑な表情でこうも語った。「開門を望む漁業者の方々にとっては長くつらい歳月だったと思う」。同じ自然を相手に仕事をする生産者として、漁業者をおもんぱかった。

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 「昔の海とは違う。今では諫早湾で狙う魚もいなくなった」-。対岸に雲仙岳を望む諫早市小長井町。漁船から海を見詰めていた平田勝仁さん(55)が、遠い目でつぶやいた。
 20歳の頃、祖父の代からの漁業に就き、父親と刺し網漁、かご漁、タイラギ漁などで生計を立てた。稚貝を放流して養殖したアサリは、1日にトン単位の水揚げがあった。
 懸念していた海の異変を感じたのは1992年の潮受け堤防着工から間もなく。海底にヘドロがたまり、最初に貝類、次にシャコ、アナゴなどが消えた。「あっという間だった」
 当時、子どもが生まれたばかり。「食べていくため」、漁場を長崎市の茂木沖などに移した。小長井では今の時期、成貝を地まきして育てたアサリを取るが、量は良くて1日50~60キロ。「昔みたいに稚貝から養殖しようと思っても育たない」。かぶりを振った。
 諫早市や雲仙市の漁業者が即時開門を国に求めた訴訟(第2、3陣)の原告(現在は計26人)に加わった。「誰かが立ち上がらないといけないと思ったから」。一審は敗訴。控訴審が続く。「開門を巡る対立関係をつくったのは国。着工前、国は『ここ(諫早湾)での漁業は可能』だと私たちに説明した。国は言ったことに責任を持ってほしい」。この24年間を言葉で表すと「混迷」だ。トンネルの出口は見えない。
 巨大公共事業の在り方が問われる象徴的な存在になった諫早湾干拓。非開門、開門と主張は真っ向から違う2人だが、異口同音に言う。「誰も対立なんて望んでいない。漁業も農業もここでやっていける状態になることが一番いい」


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