14日午前10時、熊本県益城町。町交流情報センターに設けられた献花台に、男性が白い菊を手向けた。町内に暮らす村口省三さん(73)。ちょうど5年前の午後9時26分、熊本地震の「前震」で倒れた食器棚に頭を挟まれ、近隣住民に助け出された。
「体が血でべっとり。命を落としても不思議ではなかった」。2年前から「語り部」として活動する。月に数回、県外の修学旅行生らに被災体験を語り、断層などの震災遺構を案内している。
伝えたい思いがある。
「人ごとじゃない、その一言。僕も人ごとだったけど被災した。空振り三振になったとしても自分なりの備えを」。村口さんは記者の目を見詰めて言った。
被災地が歩んだ5年間に何を学べるか。記者は2016年4月16日、前震後の同町を取材中に「本震」に遭った。今月14、15日に再び現地を訪ねた。
■恐怖は今も
観測史上唯一、震度7に2回見舞われた同町。6千棟余りが全半壊し、関連死を含め45人が町内の犠牲者だ。命をつないだ町民も余震が相次ぐ中、町外へ脱出。本県に避難した人たちもいた。
坂本友枝さん(40)は前震の翌日、両親と息子2人と共に本県へ。佐世保市内の県営住宅に3カ月ほど身を寄せた。
同町の自宅の壁には今も数本のひびが残る。築6年だった家は「地震でボロボロ」。金銭面の問題もあり完全には修繕できないままだが、子育てに仕事にと慌ただしく過ごし、日常を取り戻しつつある。
ただ先月中旬、益城で震度3の揺れを感じて体がこわばった。激震が襲った夜の恐怖は脳裏に刻まれていた。「震度7に2回耐えた家だけど、3回目はどうだろう」と表情を曇らせる。
■復興の半面
佐世保で半年間の避難生活を送り、同町に帰郷した堺博志さん(74)、芳子さん(74)夫妻も“3回目”への不安を抱く。それでも震災の翌年、全壊した自宅跡地に新居を構えた。「長年暮らして愛着のある町を離れたくない」と現地建て替えを決断した。30本のくいを打ち込んで土地を改良。全ての部屋にライトを置いたり、非常食や発電機を買い求めたりと可能な限りの備えはした。
コンクリート製造・販売会社の役員を務める博志さんは、復旧工事が進む町の今を肌で感じてきた。ハード面の復興にはめどがつきつつあると思う半面、「精神的に元に戻れない被災者は多い」。友人の妻も地震のショックで体調を崩し、亡くなった。今も町内だけで300人近くの被災者が仮設住宅に暮らす。孤立を防ぐ施策が求められる。
■犠牲者悼み
14日夜、仮設住宅で行われた追悼集会を訪れた。住民らが約500本の竹灯籠に火をともし、黙とうして犠牲者を悼んだ。
4年半以上暮らす村上悟さん(47)は、災害対策で進む県道4車線化の工事区域に自宅があり、移転先交渉に時間がかかっている。「熊本城天守閣の修復が終わり『復興』を実感するからこそ、今も仮設にいる状況がもどかしい」。復興事業が進む裏で、今なお悩み、戸惑う人がいる。
15日午後、町内を再び歩いた。倒壊した家屋はほぼ取り除かれ、新築の平屋が目立つ。空き地や傾いたまま残るお堂などが被害の「痕跡」を示す。災害に強い町を目指した道路拡幅や区画整理の工事が進み、重機の音が響く。住民も行政も「自分事」として、いつか来る災害に備えている。長崎はどうだろうか。