業火で焼ける局舎 見つめ 原子爆弾の衝撃ありありと 頓着 歌人前川明人さんのあの日(中)

被爆した長崎本博多郵便局(長崎原爆資料館所蔵)

 原子爆弾の衝撃は、爆心地から3キロ離れた長崎本博多郵便局(現・万才町)にいた当時17歳の前川明人さん(93)=長崎市=も襲った。昨年発刊した第9歌集「頓着」には、その瞬間がありありと浮かぶ歌も収められている。
 原爆の閃光に直ぐとみな立ちしあの 日の局員の目玉忘れぬ
 「ぱあっと光って、貯金課の局員が全員立ち上がった。あの瞬間の驚きの目は言葉で表現できない」
 閃光(せんこう)の後の爆風で局舎は半壊、何もかもが巻き上がり、夜のように真っ暗になった。辺りが見えるようになると、局内は一変。ガラスは吹き飛び、石でできた大きな窓口カウンターは倒れ、2階へ続く階段が壊れていた。局のすぐ裏に爆弾が落ちたと思った。
 幸いけがはなく、局の機械や郵便物、重要書類などの荷物が燃えないよう運び出す作業に当たった。大八車に乗せていったん賑橋近くの川端に集め、市内の寺に避難させた。
 昼頃、局の前を洋服は焼け、素足で歩いて行く人がいた。「どうしたのですか」と尋ねても答えない。血走った目でただ前を見据え、わが家を目指していたようだった。
 間もなく県庁が燃え始めると、しばらくして局舎でも火の手が上がった。「普通の火事の燃え方じゃない。業火がなめ尽くすように燃えた」。必死で手押しポンプで水を掛けたが焼け石に水で、局長ら14人で整列し、ぼうぜんと局舎が焼けるのを見つめた。涙がほおを伝って流れた。
 夜は寺の庭で市内が真っ赤に燃える光景をずっと眺めていた。灰が雨のように降ってきた。寺の裏の墓には多くの人が自身の家の墓の前に逃れてきていた。
 翌朝、また同僚14人が集められ、局長が「天皇陛下からお預かりした局舎を燃やして申し訳ない。みんなここで切腹しよう」と言った。「どうせ戦争で死ぬ。生き延びてもなんのためになると思って、覚悟を決めた」。しかし誰かが局の再建が先だろうと進言。「ああそうだ」と全員思いとどまった。翌日から寺で電信業務などを再開し、2、3日すると利用者が現れるようになった。
 「遺体なき逓信労働者 原爆の記録・ながさき」(全逓信労働組合刊)によると、同局では配達員など27人が被爆死しているが、そこに記載されていない後輩のことも強く記憶に残っている。
 9日の午前7時、午後勤務のはずだった後輩が間違えて同じ時間に出勤した。いったん帰るという後輩を、「すぐに昼になるからそのまま局におれ」と引き留めた。しかし後輩は坂本町の自宅へ帰り、そのまま行方が分からなくなった。
 「山下という男で親友だった。ずいぶん捜したが、死んだであろうということしか分からない」。最後に話した後輩の表情を、今もはっきりと覚えている。
 被爆地という価値観は何なのか祈念 像の上に湧きいる夏雲 敗戦の理由(わけ)など聞いていないのに騒 ぎをやめぬ爆心地の蟬 持ちやすく図太き鉛筆削 りつつ虚 しきばかりの原爆忌の夜
 あれから76年。前川さんは今も短歌で、あの戦争や原爆のことを考え続けている。

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