【プロレス蔵出し写真館】UWF選手も「すごい…」ジャンボ鶴田の運動神経 封印した美技を激写!

越中詩郎(左)を相手に〝ジャンボ流〟レッグラリアートを公開した鶴田(83年7月6日、東京・砧の全日プロ道場)

5月13日は〝怪物〟ジャンボ鶴田の21回目の命日だ。16日、16:00から全日本プロレスの東京・大田区総合体育館でメモリアルマッチが行われる。

オールドファンの間では、今でも「鶴田最強説」が根強く残っている。

鶴田は今から48年前の昭和47年(1972年)10月31日に、赤坂プリンスホテルで全日本プロレス入団発表を行った。

「就職としてプロレスの道を選んだ。プロレスが大変な道なのはわかっているつもりですし一生懸命やります」(紙面から抜粋)と抱負を語った鶴田は、翌73年3月に渡米して即デビュー戦を行い勝利を飾った。5月にはニューメキシコ州アルバカーキでドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に初挑戦するのだが、同王座は当時プロレス界では世界最高峰で、そのベルトにデビューしたばかりの新人レスラーが挑戦したことにファンは驚愕した。

同年10月に凱旋帰国して国内デビュー戦を行うと、同月9日にジャイアント馬場と組みザ・ファンクスのインタータッグ王座に挑戦。60分3本勝負の1本目に、テリー・ファンクからジャーマンスープレックスホールドでピンフォールを奪った。セールスポイントの4種類のスープレックス(ダブルアーム、サイド、フロント、ジャーマン)を惜しみなく披露して、それまでにはない〝あか抜けた〟プロレスをファンに見せつけた。

結果は時間切れ引き分けだったが、好勝負を展開した鶴田はファン、関係者から次期エースとして認知されたのだった。

とはいえ、その後の鶴田はNWA、AWAの両世界王座に挑戦するも、あと一歩のところで王座を逃がし、いつしか「善戦マン」というありがたくない称号で呼ばれた。

写真は83年7月6日、東京・世田谷区砧にあった全日本プロレス道場で新技を公開した鶴田。鶴田は6月に「ハングリー状態に追い込むため」と、保持していたUNヘビー級王座を返上し、ブルーザー・ブロディのインター王座と次期シリーズに来日するニック・ボックウインクルのAWA世界王座に照準を絞っていた。

鶴田は、新日本プロレスの木村健吾(後に健悟)の稲妻レッグラリアートをヒントに、腕でやるようなラリアートを足でもっとスムーズに当てることはできないか…と考え〝ジャンボ流〟レッグラリアートの開発に着手した。

実験台の越中詩郎の首にタオルを二重、三重に巻きつけロープに振り、ジャンピングニーパットの要領でジャンプして右足を叩きつけた。それを見て充分使えると思ったのだが、シリーズが開幕してから試合で3、4回ほど使用して封印してしまった。何かがしっくりこなかったのだろうか…。

この練習時、本紙は鶴田に新技のアイデアをいくつか提案したのだが、そのひとつにジャンピングニーパットとエルボースタンプの合体技というものがあった。ジャンプしてヒザを当てた後、素早く頭にエルボーを落とすという高度な(?)荒技。その提案に「できますよ」鶴田は即答した。

だが、この技は試合では日の目を見なかった。練習とは違い、ニーパットで相手が倒れてしまうのでエルボーを落とすことは難しかったようだ。

そういえば、本紙に掲載された、鶴田が決めた連携技の写真を見てUWFのある選手が「これすごいね。こんなの絶対タイミング合わないよ」。思わず感嘆の声をあげた。

それは、88年6月10日、鶴田が谷津嘉章と組み保持していたPWF世界タッグ王座を賭け、インタータッグ王者ロード・ウォリアーズとのダブルタイトル戦で初公開した合体技だった。谷津がブルドッキングヘッドロックに決めているホークの側頭部に、鶴田がジャンピングニーパットを決めるというもの。

ジャンプした谷津が抱えるホークに、ピンポイントでヒザを当てるというこの技は、鶴田がやるととても簡単そうに見えた。しかし、翌日UWFが興行を行った札幌に新聞を持参すると、その紙面を見た選手が思わず、そう発したのだった。

難しい技をいとも簡単にやってしまう鶴田は、やはりプロレスの天才なのだと再認識させられた(敬称略)。

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