【加藤伸一連載コラム】原点は涙のキャッチボール 4歳上の兄と…

九州三菱自動車で投手コーチを務める筆者。左奥は湯上谷コーチ

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(1)】誰であれ、人生を振り返ればそれなりの紆余曲折はある。ただ、ここまで試練の連続だった人はそういないだろう。本紙評論家でもある加藤伸一氏は地元の強豪校・倉吉北で甲子園出場を夢見るも、5度のチャンスをチームの不祥事で逃すこと4度。プロ入り後は4球団を渡り歩き、2度の球団身売りと3度の戦力外通告を経験した。それでも現役生活を21年間も続けられたのはなぜか? 山あり谷ありの野球人生が赤裸々に明かされる。

自分ではまだまだ若いつもりでしたが、気がつけば56歳。子育ても一段落したし、少しは人生を振り返ってみてもいいのかな…と思っていたタイミングで今回の連載のお話をいただきました。せっかくの機会だし、いろいろと過去をひもといていくことにしました。読者の皆さんにも喜んでいただけたら幸いです。

野球を始めたころの話から順を追ってつづっていきますが、我ながら波瀾万丈の野球人生だったと思います。プロフィルにもある通り、倉吉北高時代はチームが不祥事続きで、甲子園球場で試合をするどころか公式戦で投げることさえままなりませんでした。

1984年に南海(現ソフトバンク)で始まったプロ野球人生もそう。もちろん華やかで楽しい時期もありましたが、ヒジや肩の故障から出口の見えないリハビリ生活や球団の身売り、戦力外通告と、あまり人が経験できないようなことが何度もわが身に降りかかってきました。

それでもこうして評論家だったり、社会人野球のコーチとして、今も野球に携わらせていただけているのは、やはり野球が好きだったからだと思います。高校時代には自暴自棄になって野球をやめようかと思ったこともありましたが、何とか踏みとどまることができたのは、嫌な思いよりも野球をする楽しさが上回っていたからでしょう。

僕の野球人生の原点となったのが、倉吉市立小鴨小学校時代でした。当時の鳥取県にはボーイズリーグやリトルリーグのようなチームがなく、小学生の野球は学校単位。しかも小鴨小は4年生にならないとチームに入れませんでした。それでも野球に興味を持ったのは、4つ上の兄・康彦の影響です。

4人家族のわが家は父がサラリーマンで、母は理容師で「加藤理髪店」を経営していました。長男でもある兄は両親の教育方針もあって何かと勉強優先。チームに所属したり、部活でプレーすることはありませんでしたが、野球そのものは好きだったのでしょう。

学校から帰るとしばしば「キャッチボールをしよう」と声をかけられ、僕も喜んで付いていくのですが、帰るときは決まって「もう嫌だ、野球なんてやりたくない!」と泣いていました。小学生で4歳も違えば、体力や体格にも大きな差があります。兄の投げたボールをうまく捕球できず、体に当たり、痛くて泣いていたのです。母も困った顔をしていましたが、この痛みこそが僕を成長させたのです。

☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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