【平成の長崎】下村脩氏が死去 90歳 長崎医大薬専卒 ノーベル化学賞

平成30(2018)年

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 オワンクラゲからの緑色蛍光タンパク質(GFP)発見で2008年にノーベル化学賞を受賞した下村脩(しもむら・おさむ)氏が10月19日午前6時15分、老衰のため長崎市内で死去した。90歳。京都府出身。長崎医科大付属薬学専門部(現長崎大薬学部)卒。葬儀は21日、長崎市内で近親者のみで行われた。喪主は妻明美(あけみ)さん。

 幼少期以降を佐世保、諫早両市などで過ごし、16歳の時、諫早市の大村海軍航空廠(しょう)に動員中、長崎原爆を体験した。1951年に同専門部を卒業後、名古屋大で博士号を取得。30代で米国に渡り、米ボストン大客員教授やウッズホール海洋生物学研究所上席研究員などを歴任した。

 61年夏、オワンクラゲからGFPを発見。これがきっかけとなり、がん細胞がどのように広がるかなど、これまで見ることができなかった現象をGFPを使って追跡する手法が開発され、生命科学の飛躍的な発展につながった。80歳でノーベル化学賞を受賞した。

 2009年、名誉県民と長崎大名誉博士、佐世保市の名誉市民の称号を受けた。10年から佐世保市の九十九島水族館(海きらら)名誉館長。15年には長崎市で開かれたパグウォッシュ会議世界大会で講演し、原爆体験に言及。「戦争のない、核兵器のない世界を望む」と訴えた。

 関係者によると、かつては米国在住だったが、最近は親族がいる長崎市内で暮らしていたという。

 ■長崎県内関係者「郷土の誇りだった」 功績、人柄しのぶ

 長崎医科大付属薬学専門部(現長崎大薬学部)出身のノーベル化学賞受賞者、下村脩さんの訃報に、ゆかりの長崎県でも10月21日、惜しむ声が相次いだ。生前、「何でも一生懸命努力すれば、必ず報われる」と若い人たちへのメッセージを残した下村さん。関係者らは「郷土の誇りだった」などと功績、人柄をしのんだ。

 旧制県立佐世保中の同級生、重信尚義さん(89)によると、今年1月、長崎市内で会った後、下村さんは療養のため米国から親族のいる同市に転居していたという。

 下村さんがかつて講演で「中学時代の成績の順位は全生徒の半分より上になったことはない。でもノーベル賞をもらえた」とユーモアを交えて語っていたことが印象に残っているという。佐世保市教委が創設した下村脩ジュニア科学賞を小学生時代に受賞した県立佐世保北中1年の吉村優輝さん(13)は、下村さんから「研究は最後まで諦めずにしてください」と言われたことを今も覚えている。「賞があったからこそ、研究の楽しさを知った」と残念がった。

 下村さんの父方の実家がある雲仙市瑞穂町に住むいとこ、下村宣子さん(77)はニュースで訃報を知った。「昨年、帰ってきた時は少し足腰が弱ってきたかなという印象だった。急なことで驚いている」と肩を落とした。

 下村さんは16歳の時に疎開先の諫早市で原爆の爆風や光を体験。積み上げられた遺体やけが人も目にした。核兵器と戦争の廃絶を目指す科学者らの国際組織「パグウォッシュ会議」世界大会が2015年に長崎市で開かれた際には講演。「当時の光景は脳裏に焼きつき、消え去ることはない」と振り返り、反戦・反核を訴えた。

 諫早市の県立諫早高(旧制諫早中)正門前には10年、下村さんの銅像が建立され「どんな難しいことでも努力すれば何とかなる。絶対あきらめないで頑張ろう」という下村さんのメッセージを刻んだプレートも設置された。当時、同窓会長だった森長之さん(82)は「諫早中時代、(戦争で)学徒動員され、大変苦労されたと思う。青春の思いが込められた銅像は今も、後輩たちを励ましてくれている」と語った。

 長崎大の関係者も悼んだ。専門部時代の同級生、峰唯信(ただみ)さん(91)は、定期的に文通で近況を報告しあっていたといい、「謙虚で律義な人柄はずっと変わらなかった」と振り返った。河野茂学長は「学生や若い研究者を大いに発憤興起させた。功績に感謝し、冥福を祈りたい」とした。

 中村法道知事は「科学を志す子どもたちの育成に力を注ぐため、ご指導をたまわりたいと願っていた。痛惜の念に堪えない」とコメント。朝長則男佐世保市長は、下村脩ジュニア科学賞の表彰式などで佐世保を何度も訪れた下村さんについて「子どもを見詰める温かいお顔と科学を語る熱いまなざしが今も記憶に残っている。ご逝去は日本、国際社会にとっても大きな損失」との談話を出した。
(平成30年10月22日付長崎新聞より)
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【平成の長崎】は長崎県内の平成30年間を写真で振り返る特別企画です。

クラゲから抽出した発光物質を手に講演する下村さん=2012年9月、佐世保市三浦町、アルカスSASEBO