誰もがペトルッチの勝利を祝福する理由。無名から昇りつめた過酷なMotoGPキャリア

 イギリス在住のフリーライター、マット・オクスリーのMotoGPコラムをお届け。第6戦イタリアGPにおいて、ワークスのドゥカティチームで初優勝を果たしたダニロ・ペトルッチ。2011年末に無名の状態でMotoGPに昇格した彼の苦労と努力をオクスリーは語る。

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 ダニロ・ペトルッチ(ミッション・ウィノウ・ドゥカティ)はMotoGP第6戦イタリアGPで、ついに表彰台の最上段に上がったが、結果は非常に異なるものになるところだった……。

 5年前の2014年MotoGPシーズン開幕直前に、すべてのライダーが恒例となっていることを行った。ロサイル・インターナショナル・サーキットのスタート/フィニッシュラインに並び、毎年プレシーズンに撮影される“集合写真”を撮ったのだ。

 いつものように、トップライダーたちが前列に座り、その他のライダーたちが後ろに立った。携帯電話や発電機に至るまで多くのものを宣伝するために、誰もがロゴのついたレザースーツとベースボールキャップを身につけていたが、なかでもとりわけ目立っていたのはエナジードリンクメーカーだった。

 だが、後列の中程に立っていたライダーのベースボールキャップには宣伝のためのロゴは何もついていなかった。その代わりにいかなるMotoGPレースでも滅多に感じられることのないある感情についての言葉が掲げられていた。それは『LOVE』だった。

2014年に参戦したMotoGPのレギュラーライダー

 その男の名前はダニロ・ペトルッチで、彼は非常に落ち込んだ状態にあった。彼は2011年末に無名の状態でFIMスーパーストックシリーズからMotoGPに昇格し、3シーズン目を迎えようとしていた。MotoGPでほぼレースにならなかったことはさておき、マルク・マルケスやバレンティーノ・ロッシやその他のライダーが乗っていた250馬力のMotoGPプロトタイプに対し、ペトルッチが乗っていたのは基本的には飾り立てられたスーパーバイク(量産車)だった。

 ロサイルでのスピードトラップで、ペトルッチのイオダ・アプリリアは最速のバイクより時速12マイル(約19.3km/h)遅かった。だがそれでも2013年に時速14マイル(約22.5km/h)遅かった時や、2012年に時速25マイル(約40.2km/h)と格段に遅かった時に比べれば、わずかにましだった。差は若干縮まっているかもしれないが、ペトルッチは毎週末に銃撃戦にナイフで挑んでレースに負けるようなことはもう十分だと感じた。

「僕の人生で奇妙な時期だった。アーティストのキャリアに見られるようなものだったよ!」と日に焼けたペトルッチは語っている。

 彼はイタリアGPの日曜日、MotoGP史上最高のレースのひとつで、0.04秒差で優勝を飾った。「2014年の最初のプレシーズンテストの5日前、ジャンピエロ・サッキ(イオダMotoGPチームのオーナー)から電話があり、資金がないのでテストに参加できないと言われた。僕は完全に打ちのめされ、レースをやめなければと自分自身に言いきかせた。僕は最初の数レースでは、『LOVE』と書かれたベースボールキャップを被っていた。なぜなら僕はパドックの誰に対しても腹を立てなくなかったからだ。ベースボールキャップには、『すべての人に平和と愛を』、と書かれていた」

「僕は無名の状態から2012年にMotoGPに昇格した。完全に標準仕様のアプリリアのRSV4エンジンを積んだ新しいCRTバイクの1台に乗っていた。それはサッキのチームが店から購入したものだ。コースもタイヤも、カーボンブレーキのことも知らなかった。それに僕たちのバイクは信じられないくらい遅かった。その時期、僕は皆に対して腹を立てていた。いつもグリッド順は最後列だし、レースでは最下位だったからね」

 ペトルッチはMotoGPのパドックでは独特な性格の持ち主だ。他のほとんどの人々が手の内を見せないことに腐心している一方で、28歳の彼は率直に心の内を話す。それにグリッド上のほとんどのライダーとは違っている。彼はレース界の実力者に見出されて契約させられ、最高峰クラスへの道をスムーズに案内された神童のひとりではなかったからだ。通常とは異なる険しい道を進み、何度も挫折しかけた。

 彼は、16歳になるまでアスファルトのコースでレースをしたことがなく、ホンダCBR600カップ、そしてFIMスーパーストック600と1000の選考を受けた。

「いつかMotoGPに行くんだとずっと思っていたが、受け始めたトライアルはMotoGPとは程遠いものだった。まるで実際はバスケットボール選手なのに、サッカーのワールドカップに出たがるようなものだった。厳しい年月を過ごしたが、決して他のことは考えなかったし、情熱を失わなかった。僕の第一の夢はプロのライダーになることだった。他の仕事に就く気はなかった!」

2015年イギリスGPで初表彰台を獲得したダニロ・ペトルッチ(Octo Pramac Racing)

■ファクトリー入りするも異例の契約年数

 ペトルッチのまっとうなMotoGPキャリアは2015年に始まった。プラマック・ドゥカティが中古のデスモセディチGPに乗るチャンスを与えたのだ。2015年の雨のイギリスGPで、ホームウイナーのバレンティーノ・ロッシを追尾していたペトルッチは、初の表彰台を獲得した。2年後、ロッシを下して初めてのグランプリ優勝を果たすのに0.063秒以内のところまで迫った。それは第8戦オランダGPでのことで、またしても雨だった。彼は大柄でより体重が重いので、ウエットコンディションでグリップが得られるのだ。

 今年、ドゥカティのファクトリーはついに、アンドレア・ドヴィツィオーゾとともにペトルッチを最新スペックのマシンに乗せる契約を締結した。だがそれはたったの1年間の契約であり、新たな戦略を試すためのものだ。ドヴィツィオーゾとホルヘ・ロレンソを対決させ、ポイントを奪い合わせ、全体的に開発プロセスを混乱させるよりも、ファクトリーのために、ともに仕事をするふたりのライダーを擁することにしたのだ。

 ファクトリーがライダーと1シーズンだけの契約を交わすのは異例のことだ。ほとんどのライダーとチームは2年契約を交わす。ライダーが結果を見てパニックになり、混乱するのを避けるためだ。ペトルッチの1年契約は、ドゥカティが彼にあまり信頼を置いていなかったことを示唆している。そして最初の数戦が終わると、すぐに人々はペトルッチが年末には仕事を失い、ジャック・ミラーに取って代わられるだろうと噂していた。

 イタリアGPがすべてを変えた。第5戦フランスのル・マンでドゥカティは、今月後半のカタルーニャGPの後に、2020年のファクトリーのラインアップを決めると発表した。ペトルッチの次の契約は何も締結されていないが、もし彼が2020年の契約を得ることができなかったら、ドゥカティの本社があるイタリアのボローニャの通りで暴動が起きるのは確かだ。

 イタリアGPの週末の間、ずっとペトルッチは風邪を引いていた。彼の状態にあったらほとんどの人が休みを取るだろう。だからこそ、正義が報われたような勝利だった。まるでピットレーン全体が彼を激励しているようだった。誰かがMotoGPレースに勝った時に、これほどの喜びがパドック全体に見られたことは、ほとんど目にしたことがない。

 そして勝利の祝賀が行われた。数千人のファンが力強くイタリア国家を歌うなか、ムジェロの表彰台最上段に立つという経験をしたイタリア人は、誰でもその思い出を死ぬまで持ち続けるだろう。

アンドレア・ドヴィツィオーゾと仲の良さを見せるダニロ・ペトルッチ

 終わりなく続くレース後のインタビューでペトルッチは、彼の勝利をチームメイトのドヴィツィオーゾに捧げた。ドヴィツィオーゾは2019年シーズンに向けたペトルッチの心身のトレーニングを手伝っていた。ペトルッチは、2020年もレースを続けるために高いパフォーマンスを発揮することに囚われていたが、それは良い結果を出す助けにはならなかった。

「開幕からの3戦では、状況は本当に厳しいものになり、とても難しい挑戦になった。もし今年1度も優勝できなかったら、仕事を変えなければならなくなると、自分に言い聞かせていた。アンドレアは僕をずいぶん助けてくれた。彼は将来については考えずに、今のことだけを考えるように言ってくれた」

 ペトルッチはレースの多くの場面で首位にいたが、最終ラップでマルケスとドヴィツィオーゾに最初のコーナーで抜かれた時には、彼の努力のすべてが水泡に帰すかに見えた。しかしふたりはもつれ合い、ペトルッチにイン側に入り込むチャンスが訪れた。その過程でチームメイトのドヴィツィオーゾを捉えたのだ。「スペースが見えたのでそこに飛び込んだよ!」

「最終コーナーを出たところで、もしこのレースが過去の自分の人生のようになるのなら、僕は最終コーナーをトップで通過して、3位でフィニッシュするようになるんだろうと考えていた。4位や5位、6位に順位を落とすことになるかもしれないとね。他のライダーに抜かれるのを待っていた。そしてフィニッシュラインを通過し、僕は叫び声を上げたんだ!」

 記者会見でペトルッチは、ドヴィツィオーゾに謝罪した。「あの追い抜きはすまなかったよ」そしてペトルッチはドルナのテレビコメンテーターを務めるスティーブ・デイに慰めの言葉をかけた。

 言い換えれば、ペトルッチは最高峰クラスのグランプリ優勝者の殿堂に入ったとはいえ、今も普通の男なのだ。彼が今この瞬間も勝利を祝っていることは間違いないが、(グランプリの初優勝は一回しかないのだから)一方では、キャリアのなかでも最悪の週末のひとつを過ごしたロッシに同情しているだろう。

■ロッシとの出会いと会話「情熱はバイクに向けられている」

 ペトルッチとロッシは長い間友人関係にある。ペトルッチがドゥカティのスーパーバイクのテストライダーを務めていた2011年に、彼らは初めてムジェロで会った。ロッシと仲間のウーチョ・サルッチは、カサノバ・サベッリを通過したペトルッチのスピードに驚き、彼らは話をするようになった。日曜日にペトルッチは、彼の勝利はあの時期にムジェロを何千周も走ったおかげだと語っている。

2011年にドゥカティのマシンでムジェロを走るバレンティーノ・ロッシ

「バレンティーノの格好いいところのひとつは、彼はレースを愛しているが、やめ時も分かっているということだ」と28歳のペトルッチは語る。

「ディナーに行くとすると、僕たちは2本や3本や4本のワインをのみ、翌日には海岸にいって、トレーニングをしないんだ」

「2016年のカタルーニャGP(Moto2ライダーのルイス・サロムが命を落とした)の後、彼はコースで2日間のテストに参加し、火曜日の夜中にはイビサでのディナーに到着した。僕たちはディナーをとり、一晩中起きていた。彼にとってはそれが普通なんだ。彼は、『ダニロ、次のレースまでは1週間ではなく2週間ある』と言った。僕たちはバルセロナで起きたことについて多くのことを話した。でもほとんどはバイクの話をした。僕たちの情熱は女性ではなくバイクに向けられているっていうことをね!」

 ペトルッチの2019年の大きな目標は、レースで優勝することだった。「今では僕たちはチームの目標について考えている。それはタイトルを獲ることだ」

 だがペトルッチはドヴィツィオーゾにまた勝つチャンスがあったら、それに抗うことができるだろうか?それは時間が経てば分かるだろう。

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