盲学校・ろうあ学校の被爆伝える 「長崎・あの日を忘れない」出版 長崎大名誉教授・平田勝政さん(65)

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被爆体験の継承について「戦争を知らない私たち次世代がチャレンジしていくことが決定的に重要な時代が来ている」と語る平田さん=長崎新聞社

 特別支援教育に詳しい長崎大名誉教授の平田勝政さん(65)が「長崎・あの日を忘れない-原爆を体験した目や耳の不自由な人たちの証言-」(長崎文献社刊)を出版した。これまでの研究成果を踏まえ、長崎原爆の爆心地近くにあった県立盲学校・県立聾唖(ろうあ)学校の歴史と被爆の実態を伝えている。

 ■2枚の写真

 1996年に発行された「原爆被爆記録写真集」(長崎市)。当時長崎大で特別支援教育を担う教員養成に携わっていた平田さんは、浦上天主堂の近くにあった県立盲学校・県立聾唖学校の無残な様子を写した2枚を初めて見て、脳裏から離れなくなった。

 「どういう教育をやっていたのだろう。誰が担い、どんな思いで仕事して、ここで育った人はどう社会の中で生きているのだろう。もしこの学校が戦後も存続していれば…。問いかけてやまないものが湧き上がってきた」

 障害や病気のある人の教育について研究を始めたのは徳島大の学生時代で、養護学校教員を目指していた76年ごろ。学校に行きたくても就学がかなわなかった障害児への教育を求める機運が高まっていた時期で、全国の不就学障害児は約2万人に上るとされていた。各地で実態調査があり、平田さんもサークルでそういう子どもを捜し、学童保育のような活動にも取り組んだ。

 「障害児の関係する一家心中や子殺しは枚挙にいとまがないくらい多かった。それらの新聞記事をよく見ると、学校に行けなくて悲観して殺したという内容。社会に制度があるかないかで人間の運命がこれほど変わる。社会参加の妨げとなる『障害』を私たちの側がつくっていることに気づかされた」

 ■継承の責任

 大学院に進学し研究を続け、長崎大へ着任。院生時代に永井隆の著書が原作の映画「この子を残して」を見て強烈な印象があったことから、自分の専門である障害者教育と長崎原爆との関係に関心を抱いた。証言集や同記録写真集などを読み、戦時下の生活や被爆当時などについて2000年前後を中心に聞き取り調査を実施。成果を発表してきた。

 しかし近年、長崎の反核・平和運動をけん引してきた被爆者らが相次いで亡くなっていくのを目の当たりにして継承の責任を自覚。本書の出版に至った。本書では、第1、2章でNHK視覚障害ナビ・ラジオ「長崎・あの日を語り継ぐ」で放送された視覚障害のある被爆者佐々木浜子さんの証言や、県立聾唖学校に通った聴覚障害者の被爆証言を紹介。第3章で、県立盲学校・県立聾唖学校の変遷を振り返る。

 ■忘れ去られ

 同校は、1898年に長崎市興善町で開校した私立長崎盲唖院が前身。京都以西の西日本では最初の盲唖学校だった。その後、政府が各県に盲学校と聾唖学校の設立を義務化し、同校も公立化。1935年に鉄筋コンクリート3階建てのモダンな浦上校舎が建った。

 45年になると校舎は軍需工場に利用され、盲学校は現西彼長与町へ、聾唖学校は現南島原市へ疎開。ただし盲学校中等部の1年以下は自宅待機に、聾唖学校予科(幼稚部)の子どもたちは浦上校舎近くの県立長崎工業学校で引き続き教育を受けることとした。

 8月9日、爆心地から約600メートルの県立盲学校・県立聾唖学校は全焼全壊し、勤労動員されていた他校の女学生や教員らが多数犠牲になった。同校の学籍簿などの書類は消失。また同校の多比良義雄校長が終戦後まもなく原爆症で亡くなったことなどから、同校の児童生徒の正確な被害実態は分かっていない。

 「昔、学んだ三階の教室だった所は、天井も吹き飛んで何もありませんでした。あんなに立派な校舎で、文化やスポーツなど九州の中でも特に盛んだったのに、皆の誇りに思っていた学校だったのに…」(本書収録の証言より)。

 平田さんは「当初長崎市民の力で作った学校が原爆で破壊され、戦争で疎開したままこちらに帰って来られなくなり、結局は長崎市を離れていくことになった。その歴史がほとんど忘れ去られてしまっているのが悲しい」と話す。

 ■つなぐ記憶

 これまでの調査研究では、継承の難しさを痛感する体験もした。視覚障害のある男性への聞き取りで、戦時下に受けた差別的な言葉を尋ねたことがあった。男性は「そうねえ」と思い出そうとしながら、答えようとした瞬間、形相が変わり、「言えません」と消え入る声で返ってきた。

 「障害者としておとしめられる言葉を浴びせられて、それがどんなに惨めな気持ちにさせたか。今それをまた口にしようとして、できなくて。それを聞いて、あんたはどうするのか、それなりの誠意ある生きざまを見せてみろと言われているような気がした。深く反省させられた」

 被爆者は高齢化してこの世を去り、次世代が語り継いでいく時代が迫っている。「聞けなかったこと、語られなかったことが山ほどある。それをどう受け継いでいくのか、壁は厚い。それでも、別の証言と照らし合わせれば、何か根拠を持って言えることがあるかもしれない。被爆地として未来にどう責任を持って伝え、つなぐか。戦争を知らない私たち次世代がチャレンジしていくことが、決定的に重要な時代が来ている」と語る。

 【略歴】ひらた・かつまさ 岡山県倉敷市出身。母は広島原爆で両親と兄を亡くし妹も被爆した。徳島大教育学部、都立大大学院人文科学研究科で学び、1988年から長崎大教育学部に助教授として着任。2005年に同教授。19年3月定年退職。現在、長崎ウエスレヤン大現代社会学部教授。

「長崎・あの日を忘れない―原爆を体験した目や耳の不自由な人たちの証言―」(長崎文献社刊)