最悪の形でチームを去った「喧嘩別れ移籍」7選

移籍マーケットではかならず「喧嘩別れ」があるものだ。選手は個人事業主であるし、クラブとの関係は実に対等なものである。

そんな「所属していたクラブと対立してしまった」7名の選手を『FourFourTwo』の特集からセレクションした。

エマニュエル・アデバヨール(アーセナル→マンチェスター・シティ)

アデバヨールはアーセナルで信頼できるゴールスコアラーであったが、2008-09シーズンには怪我で苦しめられてしまった。そこでヴェンゲル監督と衝突し、2500万ポンドでマンチェスター・シティに売却された。

そしてアデバヨールはアーセナルと初めて対戦した時、ゴールを決めた。かつて自分を応援してくれたファンの前で「膝滑り」をし、古巣に対する強烈な憎しみを表現した。

ジエゴ・コスタ(チェルシー→アトレティコ・マドリー)

プレミアリーグのディフェンダーは安堵したに違いない。チェルシーの監督だったアントニオ・コンテが、ジエゴ・コスタに戦力外通告をしたときに。

チェルシーの練習に参加することを拒否してブラジルに残ったジエゴ・コスタは、泥沼の衝突の末にアトレティコ・マドリーへの移籍を勝ち取った。しかし補強禁止処分を受けていたアトレティコでは半年間プレーすることすら出来ず…。

「僕は間違ってチェルシーに行ってしまった」とのちにジエゴ・コスタは明かしている。

ソル・キャンベル(トッテナム→アーセナル)

トッテナムのサポーターはまだ苦々しい思いを持っているだろう。2001年にキャンベルがノースロンドンのライバルに直接移籍していったことに。

ホワイト・ハート・レーンで9年間プレーした生え抜きのキャンベルは、フリーでライバルの元へと去った。トッテナムファンは彼のことを「ユダ」と呼んだが、キャンベルはそれをあざ笑うかのように多くのタイトルを勝ち取っていく。

ルイス・フィーゴ(バルセロナ→レアル・マドリー)

サッカーの歴史上でも最も物議を醸す移籍の一つ。ポルトガルの魔術師フィーゴは、当時の世界記録であった移籍金でバルセロナからレアル・マドリーへと移った。

カンプ・ノウで行われたダービーマッチで見せたバルセロナサポーターの憎悪は今なお語り草である。観客席からは豚の頭までも投げ込まれた。

「バルセロナは私をきちんと扱わなかった。彼らがそれを改めたときには遅すぎたため、私はレアル・マドリーに移籍した」とフィーゴは語っている。

カルロス・テベス(マンチェスター・ユナイテッド→マンチェスター・シティ)

2006年にウェストハムと契約しヨーロッパに進出したテベス。その1年後にマンチェスター・ユナイテッドに加入し、2シーズンで34ゴールを決めるなど活躍した。しかしその契約はローンであった。

テベスはクラブ側からのコミュニケーション不足とブレー時間の不安定さに憤っており、彼は同じ街のライバルであるマンチェスター・シティへと移籍することになった。

ディミトリ・パイェット(ウェストハム→マルセイユ)

パイェットのプレミアリーグでの戦いは奇妙なものだった。ウェストハムでは圧倒的なパフォーマンスで大活躍をみせたにもかかわらず、2年目にはなんと練習に参加することすらも拒否するという「ボイコット」を敢行する。

結局そのゴリ押しによって古巣マルセイユへの復帰に成功した彼は、後に「プレミアリーグで退屈していた。あそこに長くいればキャリアが危機にさらされる」と発言した。

とはいえ、今マルセイユではそれほどいいプレーが出来ているようには見えないわけだが、彼はどう感じているだろうか。

ヨハン・クライフ(アヤックス→フェイエノールト)

アヤックスの魂のように考えられているヨハン・クライフであるが、選手としてのキャリアの終盤には激しい衝突の末に別れを告げたことがある。

1981年にアメリカからオランダに帰ってきた彼は34歳になっていたが、アヤックスで活躍。しかし2年後にクラブから引退を宣告されたことにより喧嘩別れに。

そして国内のライバルであるフェイエノールトへと移籍し、国内二冠に大きく貢献。自身の価値を証明し、そして現役を引退した。

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