希望歌い35年 故・渡辺千恵子さん描く合唱組曲 新型コロナで米国上演お預け情報発信強化

「平和の旅へ」の上演に合わせて京都市を訪れた渡辺千恵子さんと長野靖男さん=1989年11月(長野さん提供)

 車椅子から核兵器廃絶を訴え、1993年に64歳で亡くなった長崎を代表する被爆者、渡辺千恵子さんの半生を表現した合唱組曲「平和の旅へ」が今年、初演から35周年を迎えた。4月下旬に計画された初の米国上演は新型コロナウイルスの流行で中止となったが、組曲の生みの親の一人で被爆者の長野靖男さん(76)=西彼時津町=は、渡辺さんの肉声録音や組曲を紹介するホームページ(HP)を開設するなど継承活動を強化している。

 「鉄骨に挟まれていた私の体はエビのように曲がっていて、頭と足がぴったりとくっついていたんです」
 85年3月、長野さんが長与町の渡辺さん宅で聞き取った約1時間の被爆体験談の録音が残っている。コーラス団所属の造船マンだった長野さんは、アマチュア作詞・作曲家、園田鉄美さん(68)=長崎市=らと被爆40年を記念する音楽イベント向けの楽曲作りを企画し、著名だった渡辺さんの話を聞くことにした。
 渡辺さんは16歳の時、爆心地から2.5キロの学徒動員先の工場で被爆。下半身不随となり、当時の長崎市の自宅で暗い日々を過ごした。周囲の支えもあり、10年後の55年に被爆者団体の先駆けとなる「長崎原爆乙女の会」を結成。56年に長崎市であった第2回原水爆禁止世界大会で母親に抱きかかえられて核廃絶を訴え、生きがいを見つけた。
 長野さんは体験談の録音を持ち帰り、仲間と吟味。「起承転結がある。そのまま生かそう」(園田さん)となり、「平和の旅へ」が制作された。
 「死を待つだけの状態で寝かされていた」被爆直後の様子や、原水禁世界大会での演説後に「私の中にひそんでいた、ひねくれも、虚無も、絶望も、どこかへ逃げ出してしまって」喜びを感じたことなど被爆体験談から引用した複数の朗読部分を、哀感や壮大さを備えた8曲の合唱曲の間に挟んで完成させた。伴奏はピアノとギターで演奏時間は約30分。渡辺さんは「私が死んでも、代わりに被爆の実相を伝えてくれる」と喜んでいたという。
 有志の合唱団は85年7月の長崎市での初演以来、修学旅行生や県内外の行事向けに258回上演し、延べ15万人以上が耳を傾けてきた。合唱団プロデューサーの長野さんは「平和を訴えるだけでなく、どん底から希望を見いだした点が共感を得ているのでは」とみる。中学時代の98年に聴いて感動した滋賀県の女性が、後に中学教諭となり、2017年に修学旅行生を連れて演奏を聴きに訪れたこともあったという。

反核集会で「平和の旅へ」を上演する合唱団=2018年11月18日、長崎市平野町、市平和会館

 「核保有国でやりたい」。被爆75年で初演から35年の節目を迎えた合唱団は、非政府組織(NGO)核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)関係者の協力を得て、4月下旬に核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれる米ニューヨークの国連本部などで上演することになり、メンバー約40人は練習を重ねていた。
 だが新型コロナの影響で同会議は「状況が許すようになるまで」延期となり、上演はお預けとなった。「残念だが、しょうがない。次に向けて頑張るだけだ」と長野さん。渡米に向けては2月にHP「平和の旅へ合唱団・長崎」を作り、現在は渡辺さんの肉声録音や組曲の紹介、上演の受け付けなどを掲載している。「渡辺さんの存在が埋もれつつある」との危機感もあり、情報発信を強めている。
 長野さんは2歳の時に現在の福田本町(爆心地から5キロ)で被爆したが「(ほかの被爆者と比べると)ささやかな体験」として、人前でほとんど話してこなかった。そうした中、昨年、韓国であった非核・平和集会に誘われたのを機に「何かしたい」と思うようになり、長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の関係者からも渡辺さんの体験を語り継ぐよう勧められた。自身の被爆や戦後の貧しさを含めて語り部となる決意をし、今年5月のデビューを予定した。だが、これも新型コロナの影響で早くて8月以降に先送りされている。
 「未来は若者のものだが、今を生きる私たちの決意と行動にかかっている」と強調した渡辺さん。今も核兵器がなくならない一方、17年の核兵器禁止条約採択など新たな潮流もある。「核兵器はなくせる。少しでも貢献したい」。長野さんは活動開始に備えている。


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