長崎の被爆校舎 一部は戦後建設 「国指定史跡の価値変わらない」長崎市

杉本さんの遺品から見つかった写真。階段棟(左)を残し、校舎の一部が解体されている様子が写っている(長崎市提供)

 長崎市立城山小(城山町)にある被爆遺構で、国指定史跡「長崎原爆遺跡」の一つでもある「旧城山国民学校校舎」(爆心地から約500メートル)の一部が、戦後の建設であることが16日までに分かった。長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)初代会長だった杉本亀吉さん=1979年に77歳で死去=の遺品の中から、戦後の校舎改修工事(48~51年)のころに撮影したとみられる写真が見つかり、市被爆継承課の奥野正太郎学芸員が分析、確認した。市は「長崎原爆遺跡調査報告書」の校舎に関する説明文を更新し、国や県とも連携して詳しく調査する考えだ。
 「旧城山国民学校校舎」の一部に、被爆していない部分が含まれることが判明した形だが、現在、建物全体が「城山小学校平和祈念館」として平和学習に活用されており、奥野さんは「国指定史跡としての価値は変わらない」と強調。国史跡指定を前に現地調査に当たった文化庁の担当調査官も「校舎の詳細が分かるのは研究を進める上で良いことだ」とし、指定からの除外はないとしている。

保存されている旧城山国民学校校舎。正面が階段棟。右の四角い窓があるのが教室棟。点線で囲った部分が戦後、建て直されたことが分かった=長崎市(画像は一部加工)

 「旧城山国民学校校舎」は、階段棟(鉄筋コンクリート3階建て)と、それと棟続きの教室棟(同)の一部が保存されている。全体が原爆に遭った校舎とされていたが、このうち階段棟の一部と、教室棟の少なくとも一部は戦後に建て直されたものであることが奥野さんの分析で分かった。市が所有する被爆直後の別の写真と比較したところ、遺品の写真には、階段棟を除く校舎の解体が進んでいる様子が写っていた。

 この時の改修工事で完成した城山小旧校舎は現校舎新築に伴い、解体する方針が79年に市側から示されたが、卒業生らを中心に市民運動が起き、一部が保存された経緯がある。
 「旧城山国民学校校舎」は2016年10月、「爆心地」「浦上天主堂旧鐘楼」「旧長崎医科大学門柱」「山王神社二の鳥居」とともに「長崎原爆遺跡」として国指定史跡になった。階段棟には被爆による木れんがの焦げ跡などが残る。

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