各球団の「カラーバリア」を破った選手たち ドビー、ミニョソなど

ジャッキー・ロビンソン(ドジャース)が1947年4月15日にメジャーリーグ史上初のアフリカ系アメリカ人選手としてプレーし、球界の「カラーバリア」を破ったことは広く知られている。しかしその一方で、当時のメジャーリーグは16球団で構成されていたが、ドジャース以外の15球団の「カラーバリア」を破った選手はあまり知られていないのが実情だ。メジャーリーグ公式サイトでは、各球団の「カラーバリア」を破った選手を紹介している。

1947年7月5日:ラリー・ドビー(インディアンス)

アメリカン・リーグ史上初のアフリカ系アメリカ人選手として、ロビンソンのデビューから11週間後に初出場。オールスター・ゲームに通算7度出場し、1952年に本塁打王、1954年には本塁打と打点の二冠に輝いた。引退後の1962年には中日ドラゴンズでプレーして10本塁打を記録。1998年にベテランズ委員会の選考でアメリカ野球殿堂入りを果たした。

1947年7月17日:ハンク・トンプソン(ブラウンズ・現オリオールズ)

ブラウンズでは27試合のみの出場に終わったが、ジャイアンツ移籍後に3度のシーズン20本塁打を記録。ジャイアンツでは1949年7月8日にモンテ・アービン(後述)とともに球団史上初のアフリカ系アメリカ人選手として出場し、2球団の「カラーバリア」を破った唯一の選手となっている。また、両リーグでプレーした初のアフリカ系アメリカ人選手でもあった。

1949年7月8日:モンテ・アービン(ジャイアンツ)

トンプソンとともに球団史上初のアフリカ系アメリカ人選手としてデビュー。1951年に自己最多の121打点をマークして打点王のタイトルを獲得し、この年の24本塁打を筆頭にメジャー8年間で99本塁打を放った。1973年にニグロリーグ委員会の選考によりアメリカ野球殿堂入りを果たしている。

1950年4月18日:サム・ジェスロー(ブレーブス)

1950年にデビューし、打率.273、18本塁打、58打点、35盗塁、OPS.780をマークして新人王に選出。34歳での受賞は史上最高齢となっている。また、この年から2年連続で盗塁王のタイトルも手にした。

1951年5月1日:ミニー・ミニョソ(ホワイトソックス)

俊足好打の3番打者として17シーズンにわたってプレーした。1949年にインディアンスでデビューし、1951年途中にホワイトソックスへ移籍。球団史上初のアフリカ系アメリカ人選手となった。その後、1964年限りで一旦メジャーの舞台から姿を消したものの、50歳の1976年に3試合、54歳の1980年に2試合だけプレー。史上2人目の「5ディケード・プレーヤー」となった。

1953年9月13日:ボブ・トライス(アスレチックス)

メジャーでプレーしたのは3年だけだったが、1954年4月24日のヤンキース戦で1対0の完封勝利を記録。ミッキー・マントルから2つの三振を奪った。また、投手ながら打撃も良く、通算打率.288(52打数15安打)をマークしている。

1953年9月17日:アーニー・バンクス(カブス)

「ミスター・カブ」として知られるバンクスは、1953年9月17日に球団史上初のアフリカ系アメリカ人選手としてデビュー。本塁打王と打点王に各2度輝き、1958年から2年連続でMVPを受賞した。カブス一筋19年のキャリアで5度のシーズン40本塁打以上を含む通算512本塁打をマークしたが、残念ながらポストシーズンには縁がなかった。

1954年4月13日:トム・オルストン(カージナルス)

マイナー時代は「メジャーでシーズン50本塁打以上も可能」と言われたほどの長打力を誇る選手だったが、メジャーではデビューイヤーの1954年に4本塁打を放っただけ。メジャーでプレーしたのは4年間、通算91試合だけだった。

1954年4月13日:カート・ロバーツ(パイレーツ)

デビューイヤーの1954年は正二塁手として134試合に出場したものの、打率.232、1本塁打、OPS.612に終わり、レギュラー定着には至らなかった。メジャー在籍は3年だけ。31試合に出場した1956年を最後にメジャーの舞台から姿を消した。

1954年4月17日:チャック・ハーモン&ニノ・エスカレーラ(レッズ)

ハーモンは1954年に94試合、翌1955年は96試合に出場し、メジャー4年間で通算141安打を記録。エスカレーラは1954年に主に代打で73試合に出場したが、メジャーでプレーしたのはこの年だけだった。

1954年9月6日:カルロス・ポーラ(セネタース・現ツインズ)

メジャー2年目の1955年に打率.299(チーム2位)の好成績をマークしたが、翌1956年は打率.183と低迷し、出場したのは33試合だけ。この年以降、二度とメジャーでプレーすることはなかった。

1955年4月14日:エルストン・ハワード(ヤンキース)

14年間のキャリアのうち最初の12年半をヤンキースで過ごし、ヤンキースではワールドシリーズに9度出場(他にレッドソックスで1度)。4度のワールドシリーズ制覇を経験した。1963年にアフリカ系アメリカ人選手としてはアメリカン・リーグで初となるMVPを受賞。巧みなリードで常勝・ヤンキースを支えた名捕手だった。

1957年4月22日:ジョン・ケネディ(フィリーズ)

代走としてデビューを果たすも、出場したのは5試合だけ。メジャー初安打を記録することなくメジャーの舞台から姿を消した。

1958年6月6日:オジー・バージル(タイガース)

ジャイアンツで2年間プレーしたあと、1958年にタイガース史上初のアフリカ系アメリカ人選手となった。選手としては9年間で通算174安打を記録。引退後は名将ディック・ウィリアムスのもとで三塁ベースコーチとして手腕を発揮した。

1959年7月21日:パンプシー・グリーン(レッドソックス)

ロビンソンの登場から12年後、ようやくレッドソックスにも初のアフリカ系アメリカ人選手が誕生。1960年は自己最多の133試合に出場し、翌1961年には88試合のみの出場ながら自己ベストのOPS.801をマークした。

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