被爆1カ月後に亡くなった姉の形見 勉強ノートや成績表 原爆前の「日常」物語る

甲斐田陽子さんが戦時中に勉強していたノートや通知表

 「優」が並んだ通知表の表には「昭和十九年度」の文字。化学や生物の授業だろうか、色あせた手作りのノートには実験装置の絵や説明文がびっしりと書かれている。それらは、長崎に原爆が投下される前にあった「日常」を物語っていた。
 8月10日付本紙で、被爆当時、旧制県立長崎高等女学校4年生だった長崎市内の女性(90)の半生を描いたところ、記事を目にした城下澄子さん(73)=同市茂木町=から、長崎新聞社に電話があった。「姉が同じ学校の一つ下の学年だった。当時の姉の様子を少しでも知りたくて」。女性とは学年も動員先の工場も違っていたため、新たな手掛かりは見つからなかったが、姉の当時の成績表とノートも保管しているという。大切な形見を見せてもらった。
 姉は、同校3年生だった14歳の時、長崎原爆に遭った甲斐田陽子さん。学徒動員先の三菱長崎兵器製作所大橋工場(爆心地から1.3キロ)で被爆し、奇跡的に無傷で済んだように見えたが、約1カ月後に亡くなった。
 陽子さんは6人きょうだいの一番上。末っ子の澄子さんだけが戦後生まれで、姉の姿は写真でしか知らない。ほかのきょうだいや、20年ほど前に他界した母から聞いた話をつなぎ合わせ「優しくて、しっかり者の姉」を思い浮かべる。

甲斐田陽子さん(親族提供)

 母から聞いた陽子さんの優しさを物語る話がある。西彼喜々津村(現諫早市)にあった自宅に陽子さんが戻ってきたのは原爆投下翌日の昼。無傷だったのに、なぜ遅かったのか。母が尋ねると、道端で助けを求める人を放っておけなかった、というのだ。包帯代わりにするため、自身の制服をボロボロに引き裂いていた。
 成績表には「國民科」「修身」「修練」など、今では見ない科目が表記されている。長崎原爆資料館の弦本美菜子学芸員は「あまり目にしたことがない。当時の独特な表記が見られ(ノートも含め)戦時中の勉強の様子を物語る大変貴重な資料」と話す。
 ノートに整然と並ぶ文字や絵からは勤勉さや、きちょうめんさがにじみ出ている。果たして、陽子さんは将来にどんな夢を抱いていたのだろうか。「会ってみたかったな」。澄子さんはぽつりと言った。
 成績表とノートは同資料館への寄贈を考えている。


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