さだまさしが歌った「北の国から」北海道といえば松山千春じゃないの? 1982年 9月11日 さだまさしのシングル「北の国から~遥かなる大地より~」がリリースされた日

北海道を舞台にしたヒューマンドラマ「北の国から」

富良野は実に素晴らしい。大地一面に紫色の絨毯を敷き詰めたような、ファーム富田を代表とするラベンダー畑は、一度は見ておくに相応しい、日本が世界に自慢できる風景だと僕は思う。

僕の北海道好きは、TVドラマ『北の国から』の影響が大きい。この80年代を代表するヒューマンドラマが僕は大好きで、自由に旅行ができる立場になって以降、何度となく富良野を訪れ、ドラマの撮影が行われたスポットを回っては感動に浸ったりしていた。

今のこの日本に『北の国から』の主題歌を聴いたことが無いという人はいるだろうか。ドラマをリアルタイムで観た世代ではない人だって、“なんの曲かは知らないけど、聴いたことはある” という人が殆どではないだろうか。

さだまさし作曲による主題歌「北の国から~遥かなる大地より~」

「北の国から~遥かなる大地より~」、さだまさし作曲による、詞の無いハミングのみで構成される曲。もはやこの曲は、ドラマの主題歌という枠を超えて、日本の夏をイメージさせる代表曲となっている。毎年必ずと言ってくらいTV-CMで使われたり、TV番組で流れたりとKing of BGMと言えば、まさにこの曲だ。

でもね、『北の国から』の第1話で僕がこの曲を初めて聴いたとき「素晴らしい曲だ。さすが、さだまさし」と思った反面、“もの凄い違和感” を覚えたんだ。

なぜ、“松山千春” でなく、“さだまさし” なんだろう…

『北の国から』の放送が始まったのは、1981年10月。このとき既に、松山千春は第一線で活躍していた訳で、“北海道と言えば…” を背負って立つ存在だった。それをよりによって脚本家の倉本聰はど真ん中のライバルであり、しかも真逆の九州出身であるさだまさしをなぜ選んだのだろうって。

ちょっと時系列を追って整理してみよう。

北海道といえば松山千春じゃないの?

脚本家の倉本聰が、NHKとのトラブルなどで都会の暮らしに嫌気がさし、北海道に移住したのが1974年だ。自給自足の生活を理想とし、安住の地・富良野に住み着いたのが1977年。フジテレビからロビンソン・クルーソーのような北海道を舞台にしたドラマの企画を依頼され、その企画書が出来上がったのが1979年。そして倉本聰から依頼され、さだまさしが曲を書き上げたのが1980年12月15日である。日付入りの楽譜が残っているので間違いない。

一方、松山千春は富良野に倉本聰が移り住んだ1977年にデビュー。翌1978年には「季節の中で」で大ヒットを飛ばし全国区となっている。この時の松山千春に対する僕のイメージはまさに北海道だったし、「季節の中で」という名曲も北海道に住んでいるからこそ創ることができた曲だと思っていた。そして、デビューアルバムの2曲目「大空と大地の中で」は、北海道のイメージそのもの… だからこその違和感だった。

倉本聰は松山千春の存在を当然知っていたことになるわけで…(純みたいに読んでください)

さだまさし本人も「北海道出身のシンガーがいるでしょ」と初めは断ったらしいけど、倉本聰に説得されしぶしぶ承諾したらしい。このしぶしぶ承諾の原因は松山千春の存在があったからに違いないと僕は考えている。

依頼したその場で、さだまさしに曲を作らせた倉本聰

都市伝説かも知れないけど、倉本聰にさだまさしを紹介したのは松山千春だったらしいのだ。つまり、倉本聰は当時、松山千春とも近しい間柄でありながら、さだまさしを指名したということになる。なんと罪深き倉本聰。

松山千春とさだまさしの関係を知っていた倉本聰は、間を置いたら断られると考えたのか、依頼したその場で、さだまさしに曲を完成させている。実に見事な作戦だ。

倉本:どんな感じになる?
さだ:こんな感じでどうですか。
   ア~ア アアアア
   ア~ア~ アア~アアアアア~
倉本:いいね、次は?
さだ:ンン~ンンンンン~
   ンンンンンンンンンン
倉本:いいじゃない、で、詞は?
さだ:こんな壮大なドラマの主題歌に
   詞は付けられません。

もちろん、その場にいた訳ではないので正確なやり取りではないけれど、以前さだまさし本人もTV番組で作曲秘話として語っていたので、その場で仕上げてというのは本当だと思う。

北海道の冬の厳しさを知らないから書けた名曲?

結果的には、倉本聰の判断は正しかったのだろう。あえて北海道の冬の厳しさを知らないさだまさしだからこそ、この爽やかで壮大な空と大地をイメージさせる曲が書けたのかもしれない。

倉本聰もドラマの主人公達も東京から北海道への移住者だ。外から来て北海道を安住の地に選んだ家族の物語。だから、あえて倉本聰は北海道のシンガーでなく、さだまさしを選んだのではないかと僕は思う。即興で曲を書き上げてしまうような、さだまさしの才能に惚れ込んでいたのかもしれないけどね。

1977年11月、さだまさしは名曲「案山子」をリリースしている。僅か25歳でこの曲を作ったさだまさしの才能の凄さ。僕はさだまさしも松山千春も大ファンで良く聴いたけど、僕が倉本聰だとしても、さだまさしに依頼したかもしれない。時期も一致するし、倉本聰も多分「案山子」に感銘を受けたのではないだろうか(あくまで個人的推理ですが)。

※2018年7月15日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 藤澤一雅

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