全国高校ラグビー100回目の冬<上> 長崎県勢の軌跡 初出場は猶興館

県勢として初めて全国大会に出場した猶興館=西宮球技場

 今冬、第100回の節目を迎える全国高校ラグビー大会。新型コロナウイルス感染拡大の影響も懸念されるが、例年同様、高校ラガーマンの聖地「花園ラグビー場」(大阪府東大阪市)で12月27日に開幕する準備が進んでいる。過去最多の63校が出場する記念大会を前に、県勢の歴史、戦績、名勝負などを紹介する。

■主将が集結
 県内で初めて中学(現高校)の大会が開かれたのは1947年9月。島原、長崎商、海星、猶興館の4校が参加した国体予選だった。翌年の学制改革で中学が高校に改められた後、各地にチームが誕生。49年から高校としての大会が開かれるようになった。
 第1回の県大会を制したのは長崎西。以降、諫早農、島原、佐世保南、海星などが県王者となったが、当時の全国大会は西九州予選を勝ち抜く必要があった。県勢は佐賀、熊本勢の壁に阻まれる時代が続いた。
 県勢で初めて全国の舞台に立ったのは、浅見薫治、西尾金十郎らが指導した56年度の猶興館。九州の出場枠が増え、長崎県も1枠の代表権が与えられた第36回大会だった。
 猶興館は離島のハンディもあり、それまで県大会の2、3回戦で姿を消していたが、この年は平均体重約72キロの大型FWを擁して快進撃。1年時から冬場にラグビー部で活動していた相撲、水泳、柔道、陸上、野球部の各主将が、それぞれ高校最後の大会を終えた後にメンバー入りして、チーム力を大きく上げていた。結果が大村園芸、佐世保商、佐世保工、海星を倒しての初優勝だった。
 猶興館は続く九州大会も準優勝。勢いに乗って大阪入りしたが、全国は甘くなかった。陸路での長距離移動、試合直前のメンバー変更、何よりも初めて経験する全国の雰囲気…。1回戦で高崎(群馬)に3-8で敗れた。CTB、SOとしてチームをけん引した白濱信は「とてもきれいな芝生のグラウンドで、靴を履いて入っていいのかとさえ思った。それぐらい感動した。試合は負けたけれども、田舎のチームが健闘したんじゃないかな」と当時を懐かしむ。

■2強時代へ
 翌57年から台頭してきたのは、長崎大出身の林田友徳が率いる長崎工。大学の恩師である加月秋芳ラグビー部長の協力を得て合同練習を続け、62年度の第42回大会まで計5回全国に出場した。2度目の出場となった第38回大会1回戦で沼津商(静岡)に9-3で競り勝ち、県勢初勝利も挙げた。
 その後は佐世保北、長崎東、長崎南、諫早農、大村園芸、大村工などによる混戦状態が続いたが、ここから抜け出したのが諫早農と長崎南。66年度の第46回大会以降、83年度の第63回大会まで2強時代が続いた。この間、一矢を報いたのは、浦敏明が指導した第55回大会の大村園芸だけだった。
 川口弘が監督として基礎を築き、長崎工から移った林田がバトンを受けた諫早農の活躍は目覚ましかった。69年1巡目長崎国体へ向けて深堀徹也も指導陣に加わったチームは、一気に全国レベルに成長。68年度の第48回大会で3位、続く第49回大会で準優勝を飾った。
 ここで敗れた相手は、いずれも目黒(東京)。第48回大会の準決勝は5-31の完敗だったが、県勢初優勝を懸けた第49回大会の決勝は大接戦だった。後半12分までに3-20とリードされたものの、主将のCTB里和敏、副将のナンバー8山内保晴を軸に反撃。ロック平田秀俊、プロップ木下孝蔵らFW陣が前に出て点差を詰めたが、最後は16-20で敗れた。部長の林田は「やはり前半はあがっていた。後半の動きがもっと早く出ていたら良かったが…。でも、あれだけやれれば満足」と健闘をたたえた。
 この大会を含めて、3年連続で花園の舞台に立った山内が当時を振り返る。「(新潟と両県優勝した)長崎国体を第一に鍛えられたチームだったので、花園も県代表として頑張ろうという意識があった。練習の休みなどなく、最後は負けたけれど、あの3年間は胸を張れる。仲間の存在も含めて、今でも誇りやね」

第49回大会で準優勝した諫早農。準決勝で慶応に9―6で競り勝った=花園ラグビー場

 原宮之が率いた長崎南も70年度の第50回大会から、計6回出場した。進学のため、3年生の多くが6月の県高総体、九州高校大会で引退するという条件下、花園で6勝をマーク。原は「8回生が3年生の時、9月半ばごろチームに戻ってきて初めて県で勝てた。これで花園に行こうという流れができた。開会式で全国の代表と肩を並べて入場行進する姿には感激した」と振り返る。

■最激戦区に
 80年代半ばからは長崎北、長崎北陽台が台頭。諫早農の準V以降、県勢が阻まれ続けてきた3回戦の壁を相次いで越え、優勝戦線に絡みだした。
 先に結果を出したのは長崎北。86年度の第66回大会に初出場すると、緒方広道が監督を務めた93年度の第73回大会で、ノーシードから4強まで駆け上がった。翌年の第74回大会は浦敏明が育て上げた長崎北陽台がBシードとして出場。決勝で相模台工(神奈川)に12-27で敗れたが、堂々の準優勝を飾った。

第74回大会で準優勝した長崎北陽台。前年度の長崎北に続いて、県勢は2年連続4強以上という結果を残した=花園ラグビー場

 この2大会連続4強以上の要因の一つが3年生の残留。両校とも創部以来初めて、3年生全員が引退せずに冬に挑んだ年だった。この流れは徐々に定着して、比例するように県のレベルは上昇。長崎南山、諫早農、海星なども加えて、花園予選は「全国屈指の激戦区」と評されるようになった。
 実際、2004年度の第84回大会からは、本多秀典が率いた長崎北、松尾邦彦が監督を務めた長崎北陽台が交互に出場して、4年連続8強以上を記録。第87回大会の長崎北陽台はノーシードから4強入りした。
 以降、県勢が8強入りしたのは、18年度の第98回大会に出場した長崎北陽台1校。監督の品川英貴、コーチの浦敏明の熱心で質の高い指導の下、男子部員29人という小所帯が8強に名を連ねた。
 現在、県ラグビー協会の理事長を務める松本浩は言う。「長崎は高校の指導者が一つになって戦えるので、花園だけではなく、国体も結果を出してきた。熱心なジュニア指導者たちの存在も大きい。今後もみんなで次代を担う子どもたちを育てていきたい」

 


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