<いまを生きる 長崎コロナ禍>「頼っていいんだ」 収入失った大学院生 家族、支援者に感謝

 

 新型コロナウイルスが人々の暮らしを一変させた2020年。長崎新聞では、未曽有の事態に直面し、戸惑い、もがきながら懸命に生きる人々の姿を伝えてきた。紙面に登場してくれた人たちは年の暮れに何を思い、新しい年にどんな希望を託すのか-。記者たちが再び訪ね、それぞれの「その後」と「いま」を追った。

 20日夜、長崎市内のアパートの一室。大学院生の友田亮平さん(23)は、キムチ鍋をおかずに白飯をかき込んだ。「甘くて本当においしい」。傍らに置かれていたのは、米がたっぷりと詰まった段ボール箱。7カ月前、コロナ禍で経済困窮を深めた彼の姿を本紙で伝えた後、大分県の男性から届いた「支援」だった。

大分県の支援者から届いた米を頬張る友田さん=長崎市内

 友田さんは佐世保出身。女手一つで育ててくれた母に迷惑を掛けまいと、長崎大の学費や生活費は奨学金とアルバイト代で工面し、理学療法士の国家資格も取得。今春に同大学院へ進学した後も、病院でバイトをしながら、がん患者のリハビリ研究に打ち込むつもりだった。
 しかし春先、新型コロナの感染が急速に拡大。病院でのバイトが一切できなくなり、4月以降の収入はゼロに。家賃すら払えず、安価なモヤシやタマネギで食いつないだ。所持金は残り5千円。「どうやって生きていこう。友人に借金をするしかない」-。そんな厳しい暮らしを、記者に語っていた。
 「これ、あんたやろ。困った時は言ってよ」。5月12日の新聞に記事が載ると、すぐに母から電話があった。心配を掛けないよう、母にも窮状を伏せていた。取材には匿名で応じ、掲載写真もシルエットだけ。それでも母は息子だと気付いたのだった。

 「頼っていいんだ」。母の温かい言葉であらためて家族の絆に気付かされた。それからも母からは月に一回ほど、何気ない電話がある。初めて受け取った仕送りは、節約しながら食費や光熱費に充てた。今は「何かあったらすぐに言おう」と思える。
 大分県で自転車メーカーを営む男性は記事を読み、新潟産コシヒカリ20キロと牛肉2キロを送り、友田さんのために自転車部品を組み立てる内職も用意した。「たくさんの人に助けられた。ただただありがたくて」。友田さんはかみしめるように言う。
 その後、バイトや大学院での研究を再開。卒業後は病院への就職を希望している。「患者さんが早く良くなるよう力を尽くしたい。それが支援してくれた人への恩返しになれば」。多くの人に支えられた若者はいま、他の誰かを支えようと心に決めている。

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