清水東1年生の「10」武田に課せられた使命と重圧 「故郷を捨てる裏切者」とまで叩かれた

【ルックバック あの出来事を再検証】1984年1月8日、第62回全国高校サッカー選手権決勝は、帝京(東京)に0―1と敗れた清水東(静岡)の1年生、FW武田修宏が大会得点王(5得点)を獲得し、スターダムを駆け上がった。昨年好評だった本紙60周年記念連載「フラッシュバック」に続き、時代を再検証する新連載「ルックバック」がスタート。第1回は、決勝の舞台となった国立競技場には約6万2000人の大観衆を集めた武田氏が大熱狂の舞台裏に迫った。

1993年のJリーグ発足以前、もっとも観客を集めたのは全国高校サッカー選手権だった。83年大会優勝で連覇を狙う清水東は初戦となった2回戦で鹿児島実に3―1、3回戦で島原商(長崎)に4―1、準々決勝で浦和市立(埼玉)に9―0で快勝。準決勝は四日市中央工(三重)に3―1と全国屈指の強豪校を撃破。迎えた決勝で名門帝京と対戦した。

武田 国立競技場に6万2000人だよ。ピッチに入る前には人の多さにびっくりした。スタンドの上の方までぎっしり。立ち見の方もたくさんいたからね。入場規制があり、会場に入れなかった「ファン約2万人が帰った」と聞いて注目されているなって感じた。1年生だったから緊張したけど、サッカー人生の中でJリーグ開幕戦(V川崎―横浜M)、ドーハの悲劇(日本代表が戦った米国W杯アジア最終予選イラク戦)とともにベスト3に入る思い出に残る試合だったね。

まだ1年生ながら、武田には活躍しなければならないという強い使命があったという。静岡・浜松出身者がライバル地域にある清水東高に入学することは当時の“タブー”であり、周囲から猛反発を受けた。中学生ながらサッカー界では注目される存在だったため、地元紙で「故郷を捨てる裏切り者」と報じられた。しかも、通学エリア外だったため、看護師だった母親が勤務先を変更。居住地を変えることで越境入学を果たした。

武田 83年大会に清水東が優勝したシーンを見て「かっこいい」と。どうしても清水東に行きたかった。公立だからテストに受からないと入れないし、勉強もしたよ。地元の指導者からは「何で清水なんだ」と怒られたけどね。だから見返すではないけど、結果を出さないとダメだと思っていた。決勝は厳しいマークを受けたし、試合も激しかった。押し気味に試合を進めたけど、ゴールは奪えず、帝京に敗戦。それでも1年生で得点王になれた。いまだに破られていない記録だし、あの大会で自分の人生も大きく変わった。

静岡県予選決勝では三浦泰年がいた静岡学園に勝って全国切符をつかんだ。武田は当時は背番号11をつけていたが、その県予選で新人王と得点王(9得点)、最優秀選手賞を獲得。全国選手権では前年に全国制覇し「清水東三羽ガラス」と呼ばれていた3年生の長谷川健太(※現FC東京監督、他は大榎克己、堀池巧)がつけていたエースナンバーを背負うことになった。

武田 高校1年生でただ一人、日本ユース代表に選ばれていたこともあったみたい。1年生だったから「10番かー」って感じだったかな。勝沢(要)監督が決めたことなんだけど、あとで健太さんからはいじめられたなー。「俺はキャプテンで優勝も経験しているのに、なんでお前が10番なんだ!」ってね。いまでも一緒に飲むと「俺から10番を奪っただろ」って必ず言われるよ。

1年生ながらエースナンバーを背負って臨んだ初めての全国大会で準優勝。そして得点王に輝いたことで周囲はヒートアップし、甘いマスクもあって女子高生のハートをわしづかみ。全国区の人気者となった。高校の練習には連日、1000人を超えるファンが見学に訪れ、武田が練習場所を移ると、ファンも大移動するため「武田が来ると風が止まる」とまで言われた。常に注目される存在でファンレターも全国から殺到。アイドル的な人気を誇るスター選手となった。

武田 本当にすごかったよ。どこに行ってもファンが追っかけてくるから。マスコミには野球の甲子園で大活躍したPL学園(大阪)の1年生、清原(和博)、桑田(真澄)と「サッカーの武田」って書かれたからね。バレンタインデーのときは全国からすごい量のチョコが送られてきたし「明星」とか「プチセブン」でも自分の特集を組んでもらった。

サッカー界を代表するスターとなったが、それでもおごることなく、清水東でサッカーにまい進。全国屈指の最激戦区だった静岡で再び、全国選手権に出ることはかなわなかったが、ストライカーとして成長し、3年時にはキャプテンも務めた。県選抜チームでは藤枝東(静岡)のFW中山雅史をセンターバックに追いやり、不動のセンターフォワードとして大活躍した。

武田 高校時代に忘れられないのは、勝沢監督からいただいた「自信を持って逆境に勝て」との言葉。今でも自分の人生の軸になっている。地元で「裏切り者」と言われ、清水に来たけど、この言葉に救われたし、本当に人生が変わった。だから多くの誘いを受けた大学には行かず、トップレベルで勝負しようと思った。読売クラブに入団し、日本代表にもなった。1年生で出た選手権の決勝はサッカー人生の原点と言えるよ。

☆たけだ・のぶひろ 1967年5月10日生まれ。静岡・浜松市出身。小1からサッカーを始め、進学した清水東高(静岡)では1年生で出場した全国高校サッカー選手権で準優勝し、5ゴールをマークし、得点王に輝いた。86年に読売クラブ(現東京V)入りし、1年目に新人王、ベストイレブン、MVPを受賞。Jリーグの磐田や千葉、京都、スポルティボ・ルケーニョ(パラグアイ)でもプレーし、2001年に引退した。日本代表は1987年に初選出され、国際Aマッチ18試合1得点。177センチ、72キロ。

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