やっとの思いで馬場さんの遺体を自宅に運ぶも…元子夫人「京平、ばれちゃった」

いつも仲睦まじかった馬場さん(左)と元子夫人(1984年4月、金沢駅のホームで)

【ジャイアント馬場が死んだ日「空白の27時間」(4)】馬場さんの遺体は1999年1月31日深夜、無事自宅に到着した。2014年に亡くなった仲田龍リングアナ(後のノアGM=享年51)は生前、当時の模様をこう語っている。

「一時退院するからという名目で合宿所のメンバーに自宅まで来てもらったんですよ。病院を出てからは馬場さんとゆかりの深い東京体育館、六本木の全日本事務所、近所のゴルフショップの前を通って自宅へ向かったんです。元子さんの意向で密葬を終えてから公表するはずだったのですが、やはりそうはいきませんでした」

自宅に遺体が無事運ばれると、元子さんはクレジットカードを和田氏に渡し「これでみんなに好きなもの食べさせてあげて」と4人の若者を気遣ったという。「大泣きするかと思ったら、元子さんは泣かないんだ。それどころか若い連中を気遣うんだから、さすがに気丈だなあと思った。それでホテル・オークラで食事したんだけど、誰もがうつむいてひと言もしゃべらない。それはそうだよね。悪いことをしたなと今でも思っている」(和田氏)

和田氏が数日ぶりに港区の自宅へ戻ると、休む間もなく深夜、元子さんから電話があった。

「京平、ばれちゃった」

聞けば1人の記者が9階の自宅まで訪れ「馬場さん、退院されたそうですね」と聞いてきたという。外国人専用の高級マンションだったが、まだオートロックのない時代だ。「ありがとうございます。馬場さんは元気ですよ」と元子さんは答えたものの、開けたドアの向こうからは、お線香の香りが漂ってくる。どうにも隠しようのない状況だった。

すぐさま和田氏と仲田氏は馬場さんの自宅に戻り、元子さんと善後策を検討する。この時点ですでに向かいのマンション階段に1人のカメラマンの姿が確認できた。この状況ではもう一度、遺体を階段で下ろして火葬場まで運び、密葬を営むなど不可能に近かった。しかし、和田氏は動揺もせず、むしろ両肩を安堵感が覆ったという。

「何だかほっとして気持ちが楽になった。天から馬場さんが『俺を内緒で1階まで下ろすのはお前らじゃ無理だろうなあ』と声をかけてくれたような気がした。内緒がばれて安心した部分もあった」(和田氏)

この時点から翌朝まで、記者の携帯電話には履歴が追いつかないほど、無数の問い合わせがあった。そして2月1日未明から「馬場さんが亡くなった」との情報が一気にマスコミの間で流れ始めた。天と地がひっくり返った。=続く=(運動二部・平塚雅人)

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