【藤田太陽連載コラム】マスコミ、投手コーチとのやりとりで余裕がなくなりプロ生活が暗転

新人選手入団会見で。前列左から狩野、藤田、高田球団社長、野村監督、伊達、赤星。後列左から加藤、沖原、藤本、梶原

【藤田太陽「ライジング・サン」(15)】社会人最後のシーズンを故障のため棒に振り、確固たる自信を持てないままにプロの門を叩きました。虎のドラ1として過ごした喧騒は、今でもあいまいな記憶の中にあります。それでも時間は待ってくれません。入団会見、新人合同自主トレを経て高知・安芸での初めてのキャンプが始まりました。

「初日からブルペンに入るのか? そのための準備はしてきたのか?」。どんどんそんな質問も飛びます。自分なりの答えを返すのが普通なのでしょうが、正直なところ自分では決められなかったというのが事実です。投手コーチから「初日はこうです」と言われたそのまま実行する感じです。確か、初日にブルペン入ったんじゃないですかね。

立ち投げで、そんなに球数は投げてないですけど、予想以上にめっちゃ疲れたのを覚えてます。これは今でも覚えてます。見られるってことはどういうことか、しっかり実感しました。

新人ということで練習も最後まで残っていました。球場から宿舎の土佐ロイヤルホテルの正面玄関にタクシーで帰ると、ファンの方々にグワッと一瞬で囲まれたのを覚えています。今とは違って球団も交通整理をしてくれないし、疲れた体のまま逃げるわけにもいかず延々サインを書き続けました。

初日だけではなく、サインはなるべく断らず書きました。1時間なんてゆうに超えていたと思います。夜間練習もあるし、夜食の時間もあるにはありましたが、体以上に気持ちが疲れてましたね。何かに追われる感じに心が疲弊していきました。

アマ時代は本当の意味でトップではやってきていない自分。それなのに分不相応な注目を浴びてしまうことに慣れなかったです。状態が良くないのなら、マイペースで焦らずやらせてくださいという言葉も言えなかった。

第1クールの期間中、記者から「開幕までどう調整しますか?」と質問されました。「焦らず、周りの先輩たちはハイペースでつくられているんですが、僕は自分のペースをきっちり守ってつくってやっていきます」と答えました。そうすると翌日には「太陽、マイペース宣言」とどデカい見出しで書かれたんです。

なんでそんな書き方をされないといけないんだろ。もう、話す気がうせました。

そのころ、アマ時代にようやくたどり着いた二段モーションで投球していたのですが、キャンプに入るなり矯正されていました。そうしろと言われれば、チャレンジしてしまいますよね。「えっ、なんでいきなり」とは思いましたが、プロのコーチが言うんだから、自分を伸ばすために意図があるんだろうと思って従いました。

ただ、やってみてもダメでした。全然バランスは悪いし、しっくりこなかった。そこで、相談したんです。まずはこの二段モーションのままでやらせてくださいと。しかし、答えは「そんなのダメに決まってんだろ」のひと言でした。

「何が決まってるんだ」と僕も思ってしまいましたが、ちゃんとコーチにも理論があったんでしょう。野村監督から、二段モーションをやめさせろと言われていた背景もあると思います。ただ、これは当時の八木沢投手コーチを非難したいんじゃないということは理解してください。その意図はありません。

どんな事情があったにせよ、僕自身がしっかり対処して結果を残せていれば何も問題はない。自分の実力不足と自覚しています。ただ、当時の僕にはそんな余裕がなかった。そこからもうまく歯車がかみ合わないプロ生活が続いていきます。

☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

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