芸歴50年 桂南光が語る師匠・桂枝雀「顔も知らんのに、落語も聞かずに弟子入りしたんです」

古希記念の全国ツアーを開催する桂南光

特徴あるダミ声と狭い額がトレードマーク、前名・べかこにちなんだ「べかちゃん」の愛称で親しまれている落語家・桂南光(69)は昨年、芸歴50年を迎え、今年で70歳になる。1月の京都南座を皮切りに「古希記念 桂南光独演会」(全国23か所、最終公演は6月26日・大阪松竹座)をスタートさせた南光が、師匠の故・桂枝雀さんをはじめとする落語家について語った。

【芸歴50年 桂南光インタビュー(1)】

――古希記念独演会がスタート

南光 70歳になっても舞台に上げてもらえる感激が大きいというか。緊張感もなく、気持ちよく演じられてますね。

――新型コロナウイルス感染対策で観客も半分

南光 世の中がどう変わろうが、それであたふたはないですね。最初のあいさつで、お客さんの聴いてあげようという感じがわかったし、やりやすかった。お客さんも隣が空いてる方が楽に聴けるしね。噺家になったころは100人のところに10人もいないとか経験してる。(客が)いっぱい入るに越したことはないけど寂しさはないです。

――師匠の枝雀さんについて

南光 師匠には落語もそうやけど、礼儀、言葉づかい、社会に生きる上での必要なことや考え方を親よりも教えてもらった。私は師匠でできていると思ってる。

――出会いは

南光 ラジオ聴いて、顔もはっきり知らんのに「この人とは気が会う」と思って落語も聞かずに弟子入りしたんです。趣味も落語という人でね。「落語がイヤになったらやめてください。私は続けます」と言われて「私は落語が好きというわけではないけど、師匠が落語を続けるなら続ける。師匠が大工なら大工にもなるし、魚屋だったら魚屋にもなる。ずっと師匠といたいから付いていきます」なんて話をしましたね。

――そこまで惹かれた魅力とは

南光「私はこう考えるから、あなたはこうしなさい」っていう師匠が普通ですよね。でも、ウチの師匠は「私の言うことが正しいとは限らない。おかしいと思えば言ってください」という人でした。普通、弟子の意見なんて聞きませんし、一般社会でもなかなか若いもんの言うことを良しと受け入れる人なんていませんよね。そんな師匠をすごいと思うけど、すごい人を見つけた私もすごいと思ってます(笑い)。

――大師匠の米朝さんは

南光 噺家として、もちろんすごい人。人間的にも達人だと思います。何かが起こっても動揺しない人でね。「生きてるのもな、死ぬのもな、一緒やから。死ぬことが大変って言うけど、生まれてくることも大変やし、毎日の日常も大変」とおっしゃって、実際にそういう生き方をされてました。落語も「たちぎれ」みたいな重い噺をやると、師匠の枝雀なんかは楽屋に帰っても引きずってるんですけど、米朝師匠は「注文しといた丼、来てへんやないかい」って怒ってたくらい。落語の世界に入り過ぎず、俯瞰で見ながら演じてた。私はそういう部分にすごいあこがれるんです。

――米朝さんの息子の米団治について

南光 育ちのいいボンボンで、割にお気楽な方です。でも人間的にもええ人ですし、芸人としても器用。初めてのネタって結構失敗するんですけど、彼はスムーズにやります。米朝師匠の芸とは全然違いますけどね。米団治さんは還暦も過ぎてだいぶ落ち着いてきた感じします(笑い)。米朝事務所社長としても大変な仕事も楽しんでやってくれてる。そこも器用ですな。ただね、どこかで墓穴掘りそうな気もしてね。社長に任せといてええんかな、という不安もあります(笑い)。

――ざこばは

南光 朝丸時代から仕事に関して気をかけてくれましたね。ウチの師匠は「落語だけやってればいいんじゃないか」って感じでしたけど「売れなあかん」って。こうやってマスコミの仕事させてもらってるのは、ざこば兄さんのおかげですね。人間的にも情にもろい。落語にも人間性がごっつ出てて、ちょっとした言葉に説得力みたいなのも出てる。今でもキューンってなるときあります。

かつら・なんこう 本名・森本良造(もりもと・りょうぞう)。1951年12月8日、大阪府千早赤阪村出身。今宮工科高校在学時の69年、桂枝雀(当時小米)に弟子入り志願。卒業後に入門、桂べかこを名乗る。93年に3代目桂南光を襲名。落語家として活躍する一方で「バラエティー生活笑百科」(NHK)、「大阪ほんわかテレビ」(読売テレビ)などテレビ・ラジオでも人気を集める。また、所属する米朝事務所の常務取締役も務め、桂ざこばとともに社長の桂米団治を支えている。

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