【藤田太陽連載コラム】「チームに必要ないならトレードに出してください」

藤田(左)をチェックする中西コーチ(右)と久保コーチ

【藤田太陽「ライジング・サン」(26)】タイガースは2003、05年にリーグ優勝を果たし、常に優勝を争う球団になっていました。僕が逆指名で阪神入りを決断したころとは、チーム状況は大きく変わっていました。

チームが強くなるとともに、自分もその中心に。そうなることが理想でした。でも、自分は右ヒジの手術を経て、復帰しても一軍と二軍を行ったり来たりの状態が続いていました。

一軍に呼ばれたと思ったら1週間でまた二軍落ちなんてこともザラでした。上がったり下がったり。エレベーター状態でした。

そういった中で自分では腐らず努力を続けようと意識はしていました。あのころは二軍では中村泰広(現球団職員)とローテの中心で投げていました。成績はよく覚えてないけど、抑えていた記憶があります(ウエスタン・リーグで05年は14試合7勝2敗、防御率2・75。06年は24試合4勝1敗、防御率1・64)。

でも、07年の半ばくらいのころです。いろんなことを変え始めました。投球時の腕の位置もオーバースローから、少し下げてみたり。先発へのこだわりという考えもなくなっていました。08年にはファームで抑えをやってましたね。

その08年、チームは好調でした。巨人に13ゲーム差をひっくり返されて優勝を逃しましたが、シーズン終盤まで首位を走っていました。北京五輪中から後に失速してしまいましたが。そういう激しいV争いの中でも、僕が二軍で結果を残したところで声がかかることはなくなっていました。

僕は00年のドラフト1位。もう、期待されてチャンスを与えてもらえる立場ではなくなっていました。それは当然です。先を見据えて若い選手を使うのが普通だと思います。

そのころには僕は球団にトレードを志願し、相談させてもらっていました。07年のオフだったかな。

「ドラフト1位で獲っていただいて、期待に応えられなくて申し訳ないです。現状、チームにとって必要ないならトレードに出してください」

契約更改交渉の席ではもう、当時の僕では交渉なんかではないですね。はい、お疲れさまでした、ではこれで(金額提示)みたいな感じでした。こちらも人間なので期待されているかどうか、肌で感じてしまいます。寂しい話ですが、これも自分の責任です。

一方、グラウンドでは自分の人生を切り開くため、技術を磨く行為を怠りませんでした。自分の体の動きとしては、腰の回転が横回転なんです。自分で考えてスリークオーターで投げることを選択しました。

腕を上げれば上げるほど自分の場合は体の自然な動きとは違う。腕の位置を下げて体の動きがスムーズになると、相乗効果で右ヒジへの負担も少し楽になりました。ちょうどそのころには肩甲骨周りの柔軟性を追い求め、トレーニングもしていました。いろんな行動や思考が結果としてつながりました。キャッチボールをしていても試したフォームが自分にしっくりハマったんです。

☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

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