【動画】橋物語・平戸大橋 島民念願の朱色の橋

平戸大橋

 1977年4月4日。平戸大橋開通日の長崎新聞朝刊1面には「歩いて本土へ渡りたい」との見出しと共に、平戸島民の念願がかなうことを知らせる記事が掲載された。旧平戸市と旧北松田平町(現平戸市)を結び、海に映える朱色の橋は全長665メートル。4年の工期と総工費56億円が投じられた。当時、記念に作成された冊子には「観光、県北地域開発のインパクトとして期待されている」とある。
 架橋を求める声が上がり始めたのは大正時代。1955年に平戸島内の町村と離島の度島村が合併して、旧平戸市が発足すると架橋を求める声が再燃。1969年、ついに国から平戸大橋有料道路の建設が認可された。
 架橋前、本土に渡るには平戸港からのフェリーに乗るしかなかった。帰省シーズンなどは平戸港側、田平港側とも、1キロ以上も乗船待ちの車の列ができた。運航会社は所有する4隻でピストン輸送で対応した。
 旧田平町から平戸島の県立猶興館高に通い、卒業後は島内の電器店に勤務した山田祐二さん(67)は「大型連休やお盆、正月は帰省客が多く、島の人たちが車で島外に行くのは大変だった。観光バスも並んで待つしかなかった」と話す。
 県職員として架橋事業に関わった白濵信・前平戸市長は「燃料や資材の高騰が続き、担当課は年4回の県議会定例会ごとに経費増加に対応する予算案提出を迫られた。当初計画(約35億円)からすると総工費はかなり大きくなった」。「公共事業なら無料にできたが、数多くの計画があり、架橋までもっと時間がかかっていたはず。できるだけ早く、という考えでやむを得ず有料事業という選択をしたのだろう」と振り返る。
 当初、通行料金は普通車で往復1400円だったが、1978年3月末までの架橋初年度の利用台数は県の想定を大きく上回る約138万台。通行料金は徐々に値下げされ、2010年4月、ついに無料化。2019年の通行台数は約314万台に達した。観光客は架橋前の1976年度の91万人超から、架橋初年度の77年度は238万人超と2.6倍に急増した。
 開通の1年前まで旧平戸市広報担当だった立山甚一さん(71)は「架橋後、少人数の女性観光客が見られるようになった。福岡からでも日帰りできるようになったのは大きいと思う」と指摘。立山さんは着工前、平戸での集会で青年代表が述べた「島を離れた人たちが、いつでも橋を通って平戸に帰ってくるようになってほしい」という言葉が今も忘れられないという。


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