今も消えないやるせなさ 自然の猛威「人間の無力さ」痛感  岩手で捜索活動 長崎市消防局の岡本さん

岩手県野田村での捜索活動(長崎市消防局提供)

 東日本大震災から11日で10年。発生直後から被災地には全国の警察や消防、自衛隊員らが多く駆け付け、行方不明者らの捜索活動に当たった。長崎市消防局警防課長の岡本和幸さん(55)もその一人。「今でも思うんです。もっとやれることはなかったのか、もっと(捜索活動を)続けたかった」と。脳裏に焼き付く被災地の光景、今も消えないやるせない思い-。
 2011年3月11日、午後3時ごろ。テレビに映し出された津波の映像に目を奪われ、直感した。「長崎にも派遣要請がくる」。その時に備え、食糧や機材、車両などの点検を急いだ。国からの要請を受けたのは14日の午前11時25分。その1時間半後には長崎を出発した。ただ、生存率が急激に下がるといわれる72時間を過ぎ「今から行って人を救えるのか」。そんな複雑な思いも抱えていた。
 県内10の消防本部から集まった62人で構成された県緊急消防援助隊。同隊の大規模な派遣は初めてだった。しかも、東北地方は全く想定外の地域。県援助隊の後方支援部隊長として、現地までのルートや隊員の食事の管理など移動中も頭をフル回転させた。
 新門司港(山口)から有明港(東京)まで30時間以上かけてフェリーで移動した。途中、買い出しのため徳島の港で下船した際、隊員の背中にある「長崎市消防局」の文字を見て複数の住民が寄付金を手渡してきた。受け取ることはできなかったが、隊員たちは「被災地のために」という強い思いを背負った。
 有明港に到着したのは16日早朝。行き先は決まっておらず、ひたすらに東北自動車道を北上した。岩手県久慈市への派遣が決まり、17日午前3時に現地に到着。野営場所となった柔剣道場に暖房設備はなく、氷点下9度の中、寝袋に入ったが、眠ることはできなかった。
 初日は市内で活動し、翌日からは隣接する野田村で行方不明者を捜索した。太平洋に面した村は最大約18メートルの津波に襲われ、甚大な被害を受けていた。岡本さんは村役場の屋上に上り、眼下の景色に声を失う。大災害を前に人間の無力さを思い知らされた。
 捜索のため、がれきの山を進んだ。発生から1週間。崩れかけた家のそばで人がうずくまり、泣いている。掛ける言葉は見つからなかった。片付けをしていた住民は隊員を見かけると無言で手を合わせ、頭を下げた。野営場所の銃剣道場の壁には、誰が書いたのか、連日お礼のメッセージの紙がたくさん張られていた。

◎「自助」「共助」の大切さ訴え 岡本さん、教訓を地元に還元

 余震で揺れ始めると、倒壊した建物からの捜索は中断した。危険が伴う状況の中、岩手県久慈市に続き隣接する野田村で3日間捜索。2011年3月21日朝、国から活動終了の連絡が入った。「まだやれる。まだ続けたい」「このまま帰っていいのか」。体力も食糧もまだ残っているのに。不完全燃焼の隊員たちは無念さをにじませた。久慈市を含めた4日間の捜索で要救助者の発見には至らなかった。

被災地に派遣された当時の状況を語る岡本さん=長崎市興善町、市消防局

 「何もできなかった」。当時の隊員の多くがそんな思いにさいなまれていると話す岡本和幸さん。救助隊が訓練を積み、どんなに高い技術を備えたとしても、自然の猛威には勝てない。被災地での経験から「自助」「共助」の大切さを改めて考えさせられた。
 13年から5年間、長崎市全体の防災を取りまとめる市防災危機管理室に出向。住民に大震災の経験を語り、自助の醸成と共助の推進に取り組んだ。何度断られても地道に自治会を回り続け、災害時に住民同士が助け合う「自主防災組織」の必要性を訴えた。
 住民の説得に苦労する同僚職員には、こんな言葉を掛けて励ました。「今は(住民にとって)厄介者でいい。実際に災害が起きたとき、『あんたのおかげで救える命を救えたばい』って涙を流して握手を求められる。絶対にそうなるから」。出向した5年間、休眠状態にあった組織の掘り起こしに加え、新規の組織も増やしていった。
 消防局に戻った今、市民と接する機会は減った。ただ、今後も自身の経験を後輩たちに伝え、地域に教訓として還元していくつもりだ。それが被災地を知り、無力さを痛感した者の「責務」だと思っている。

がれきを撤去しながら捜索する長崎県緊急消防援助隊=岩手県野田村(長崎市消防局提供)

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