「定点」遺構が完成 普賢岳大火砕流「教訓活かす」

完成したモニュメントに手を合わせる参加者

 43人の死者・行方不明者が出た1991年6月3日の雲仙・普賢岳大火砕流惨事から30年を迎えるのを前に、タクシー運転手や報道陣が犠牲となった島原市北上木場町の撮影拠点「定点」周辺への被災車両の展示、石碑やモニュメントの設置が終わり22日、完成披露の式が開催された。
 同市の安中地区町内会連絡協議会(阿南達也会長)が、亡くなった人たちの慰霊とともに、災害遺構として噴火災害の教訓を後世に伝える場をつくろうと、1月に整備を始めた。定点にはこれまで、三角すいの白い木製標柱が目印として立つだけだった。
 整備面積は約3千平方メートル。定点から約20メートルの距離に野ざらしのまま残されていた取材車両1台と、定点から約70メートル離れた位置で火山灰などに埋もれていたため2月に掘り出したタクシー2台の被災車両3台を台座に据え付け、既に整備済みの別の取材車両1台の近くに展示している。
 石碑には「雲仙普賢岳の災害教訓を未来に活(い)かすことを誓う」と刻まれた。石造りモニュメント(高さ約2メートル、幅約1.5メートル、重さ約3.5トン)は島原半島産の安山岩を真ん中から割る加工を施し、天に向かって合掌しているように見えるデザイン。下部に挟み込んだ球状の花こう岩(直径約45センチ)の下には、犠牲者の数と同じ43個の那智石(直径約3センチ)を置いているという。
 式では、消防団員だった息子、佐藤透さん=当時(24)=を亡くした父の均さん(82)らがモニュメントの除幕をした。均さんは「毎日息子の写真を眺めては『父さんも年を取ったよ』と報告している。これだけ(整備を)してもらえれば、孫も連れて来られる。よかったと思う」と話した。

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