先人に会いたい 長崎の史跡墓所めぐり<3> 異国の木々に包まれて 唐僧玉岡、仏師范道生の墓

崖面に墓碑をはめ込んだ珍しい形式の唐僧玉岡の墓

 「唐僧玉岡(ぎょっこう)の墓」と「仏師范道生(はんどうせい)の墓」は、いずれも黄檗宗聖寿山(おうばくしゅうしょうじゅさん)崇福寺(長崎市鍛冶屋町)の墓域内にある。黄檗宗は禅宗の一つで、中国の高僧、隠元禅師が日本で開いた。崇福寺は1629(寛永6)年に、長崎に住む中国人らの寄付で建てられた。それぞれ江戸時代前半に中国から渡来した僧と仏師は、共に、祖国にゆかりの深い寺の墓地で、300年以上の永い眠りについている。
 案内人なしでは墓碑を探すのは難しいとの住職の助言で、同寺に勤める松竹一吉さん(79)に案内してもらった。
 墓地は、本堂・大雄宝殿(国宝)の裏山にある。急な石段を上ると、墓碑の後ろに細長い石を寝かせた中国式の墓が並ぶ。その上は雑木林。イノシシや、夏場はマムシもでるという。古い墓碑が並ぶ林の中を15分ほど上ると、ようやく石の祠(ほこら)のような玉岡の墓に着いた。辺りは木々に覆われて薄暗く、説明板はあるが、確かに案内がなければ気づきにくい場所だ。
 説明によると、崇福寺の住職も務めた玉岡は、74(延宝2)年、33歳で長崎に渡来し、崇福寺に入った。93(元禄6)年に52歳で病没。墓は、石壁を築き、彫刻も多く、手の込んだ作りであることから、製作された17世紀末頃が中国貿易の全盛期だったことを反映していると考えられている。
 范道生の墓は玉岡の墓の近くにある。こちらは、地面に石を積んだ台座に墓碑が置かれた簡素な造りだ。
 范道生は、宇治の黄檗宗大本山萬福寺の十八羅漢像など優れた仏像を多く造った。日本の仏師にも影響を与えたとして、美術書にも紹介されている。十八羅漢を仕上げた後、64(寛文4)年秋、老父がいる廣南(こうなん)(現在のベトナム)に向かった。70(同10)年に再び長崎に来たが、滞在を許可されず、吐血して36歳で死去。崇福寺に葬られた。
 崇福寺には、江戸時代に渡来し、亡くなった中国人の墓も多いという。十数年にわたり、墓地内を掃除し、花を供えている松竹さんは「子孫が中国に帰ったり、2代、3代になったりして、参る人がいなくなった墓も多い」と話す。2人の墓にも清楚(せいそ)な花がたむけられていた。史料が少なく、2人についての詳細は知られていない。その生涯に思いを巡らせながら、山道を下った。

◎メモ
 「唐僧玉岡の墓」
 「仏師范道生の墓」
 いずれも長崎市指定史跡
 指定年月日=1978年12月20日
 所在地=長崎市鍛冶屋町崇福寺募域内

2度目の長崎滞在が許されなかった范道生の墓

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