【直撃!エモPeople】衆議院議員公設秘書・阿部光利氏 元TVリポーターがなぜ国会に!?

国会議事堂をバックに笑顔

事件現場や記者会見場にこの人あり。ワイドショーのリポーターとして取材現場を駆けめぐっていた阿部光利氏(64)がなぜか国会にいた! 有名リポーターを突如廃業しラーメン修業、広告代理店経営、区議会議員、そして今、衆議院議員公設第一秘書なのだ。紆余曲折の半生をたどると、キーマンとの出会い、何度も直面したピンチからの復活。知恵とアイデアで人生を生き抜くヒントが見えてきた。

1989年、フジテレビが業界初で実施したワイドショー「TIME3」のリポーターオーディションで、応募約1600人中、採用枠3人に合格。阿部氏の本格的なリポーター人生がスタートした。

名古屋の100歳双子姉妹きんさん・ぎんさんブームの火付け役を担い、オウム真理教、福田和子事件など様々な取材を経験。フジで6番組を渡り歩いた。2000年、在籍していた「2時のホント」の番組打ち切りが突然告げられ、リポーターは全て解雇となった。

だが、阿部氏は「失意どころか、正直、うれしかった。10年間、1日20時間労働、満身創痍で左半身は常にけいれん状態。辞めたくても給料が良いので自分からは辞められなかったので、背中を押してもらった気がした」。

番組の打ち上げで「ラーメン屋転身」を宣言。すぐに開業を条件に家系元祖「吉村家」に弟子入りした。

「取材で全国を巡りましたが、ご当地の名物料理はほとんど口にしていない。最終便ぎりぎりまで取材を続け、かき込んでいたのがご当地ラーメン。心のよりどころでした」

異色の転身劇に、テレビ東京のドキュメンタリー番組の密着取材も始まった。第2の人生を祝福する仕事仲間やリポーター業の師匠・東海林のり子さんとの涙の別れ、ねじりはちまき姿でしごかれ奮闘する映像など、撮影は順調に続いたが、またも人生は暗転する。

吉村家の経営者がわいせつ図画販売で逮捕されたのだ。テレビ番組の密着取材、放送はお蔵入りになった。

「さすがにこたえましたね。経営者逮捕の2週間後には長男が誕生。この先、親子3人、どうやって暮らしていくのか? 大見えを切って飛び出しただけに引っ込みもつかない。銀行からは開店資金の融資も断られ、八方ふさがりの状態でした」

しかし、半年後、拾う神が現れた。

「広告代理店から『切羽詰まっている。会見場にテレビ局を呼んでほしい。お金だったらいくらでも出す』という依頼。その仕事が成功し、担当者から『こんなにテレビ局を呼べる人はいない』と評価され、子会社を紹介され就職しました。一度しか仕事をしていなかった、この担当者が私の運命を軌道修正してくれた」

その後は広告代理店を創業するが、11年に会社を閉鎖し、今度は政界へ。東京都台東区議選挙に立候補し初当選、2期目も当選した。しかし、3期目の挑戦でわずか46票差で落選してしまう。

「敗因はおごり。2期8年の実績で必ず当選すると過信していた。現実を受け入れられず、夜中に突然目覚め不安が頭をよぎる。62歳で完全失業となり、ハローワークに日参しましたが、高齢の壁は厚かった。就職できないなら、広告代理店を再興しようと考えました」

その第1号のクライアントが、17年の衆院選を経て次期衆院選の準備中だった松尾明弘氏(立憲民主党)。阿部氏は朝の駅頭演説やポスター貼り、ポスティングなどに従事した。すると、再び神風が吹く。比例次点落選だった松尾氏が昨年11月、繰り上げ当選となり、衆院議員となったのだ。

「松尾さんから公設第一秘書への要請があった時にはビックリしました。そんな要職は党推薦で来るものと思っていたからです。1年間の仕事を認めてくれた、人情派の弁護士でもある松尾代議士には感謝しています」

山あり谷ありの半生を「人生は人との出会いと選択。おかげさまで、ちょうどいい時に必要な人と出会えた。苦難福門。苦難の時には必死にもがき苦しむこと。必ず道はひらく」と阿部氏。63歳での再就職、しかも国家公務員だ。政界の一員となり、近い将来は国政進出かと思いきや…。

「やり残したことが2つあります。憧れたラーメン店出店と区議選で投票してくれた人たちへの恩返し。生涯現役でひと山ふた山越える覚悟で、残りの人生で追求します」
降りかかる苦難も何のその。しゃべりのプロは笑顔を絶やさず、次を見据えている。

☆あべ・みつとし 1956年6月14日生まれ、山形県鶴岡市出身。89年、フジテレビ「TIME3」リポーターを皮切りに「おはようナイスデイ」「とくダネ!」などを経て、2000年「2時のホント」終了で引退。ラーメン業界転身を図り「家系元祖・吉村家」で修業。広告代理店経営後、11年台東区議選で初当選。20年、松尾明弘衆院議員公設第一秘書就任。座右の銘は「今の辛さは将来の為の過程である」。

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