「横浜の意外な酪農史」再び 往時を知る人たちから反響続々

根岸付近の牧場

 読者の疑問をもとに、横浜開港から続く知られざる「ミルク・リング」の歴史を追った「追う! マイ・カナガワ」の11日付の記事に、往時を知る方々から続々と感想が寄せられている。牛とともに生きたハマっ子たちの記憶を、記者が再び追った。

 開港期、西洋文化の伝達とともに、乳製品が日本で初めて横浜で生産されるようになった。当時はハイカラな嗜好(しこう)品。明治~大正時代には、牧場経営で一旗揚げようとベンチャー精神旺盛な人たちが横浜に集まり、消費の中心であった波止場を囲むように牛を飼育し始めた。こうして誕生したハマの「ミルク・リング」(牛乳圏)の歴史を伝えた記事を読んだ川崎市中原区の佐野ケイ子さん(81)からマイカナ取材班に連絡があった。

 「日本の牧場が横浜発祥だと初めて知りました。私が小さい頃、横浜市中区寺久保で父親が『昭和牧場』を営んでいた。父が亡くなってしまい歴史が分からない。何か知っていることがあれば教えてほしい」

 横浜開港資料館(同市中区)の元調査研究員・斎藤多喜夫さん(73)がまとめた横浜のミルク・リングの資料をめくると、佐野さんの父・永作開蔵さんの名前も載っていた。時代の風を読んだ一人だったのだろう。資料には、1914(大正3)年に牧場を開業した記録が残る。

 佐野さんによると、最盛期には30頭の乳牛を飼育し、「昭和特別牛乳」のブランドで販売。父は得意の英語を操って、山手の外国人や元町のケーキ屋などに牛乳を卸していたという。

 だが戦後、49年に父親が亡くなり、廃業した。「高校を卒業した頃、父の牧場の歴史が知りたくて調べたけれど、何も見つけられなくて悲しかった」と佐野さん。資料に名前があったことを伝えると「横浜の近代化に父の牛乳が貢献したと思うと本当にうれしい。でも、大正にできたのなら、何で昭和牧場だったのでしょう」と笑いつつ、昭和牧場の門前で弟と写る貴重な写真を送ってくれた。

 「牧場があった場所に行ってみてほしい。昭和牧場の跡地にできた根本牧場の方がいるかもしれない」と佐野さんに言われ、記者はその地を訪ねた。

 根岸森林公園近く、日米で返還合意している米軍根岸住宅地区に面した住宅街の一角で、「根本牧場」をかつて営んでいた根本久子さん(86)に出会った。

 根本さんによると、千葉の成田出身の根本さんの祖父母が明治時代に、横浜で牧場を開業。戦後も続き、最盛期には横浜市中区の塚越、簑沢、八幡橋、寺久保に計四つの牧場があった。

 「昭和牧場さんの跡地にできた寺久保の牧場が、一番最後まであったんです。従業員の長屋もあって、子どもがたくさんいました。牛の乳をお湯でふく作業を子どもたちも手伝ってくれたり、みんなでごはんを囲んだりと、良い思い出ですね」と懐かしむ。

 夏場、米軍住宅で草を刈る作業員に、自宅敷地内に湧く自慢の井戸水で冷やした牛乳を提供するととても喜ばれたという。「牛乳を目当てに刈りに来る人がいたくらい」と根本さんはほほ笑んだ。

 ハマの牛乳に「父の命が救われた」と思いをつづった同市磯子区の長塚育代さん(72)からも取材班に手紙が届いた。

 長塚さんの父は1923(大正12)年、関東大震災があった夏に産声を上げた。大地震のショックで母の母乳が止まり、赤子の命をつないだのが根岸小学校(同区)近くにあった牧場から届いた牛乳だったという。「両親の困惑もよそに、一日に牛乳を8本も飲み干したと」と、家族の中では今も大切に語り継がれているストーリーだ。

 「父が一昨年、96歳で亡くなる日まで家族と過ごせたのも、ミルク・リングの牛乳が父の命を救ってくれたおかげ」と長塚さん。「牧場がなくなる前に訪ねてお礼を申し上げればよかった」と、残念がった。

 ハマのミルク・リングは失われてしまったが、牛乳が育んだ命や物語は、こうして受け継がれていく。

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